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青のpressed flower (中編小説)

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2017年に長野県在住のクリエイターの手により映像化された作品の原作です。夏の軽井沢町が舞台の物語です。(読み終えるまでの時間、約1時間20分)

作:武田まな

イラスト:氷見こずえ

アスペルジュ

季節が巡るからといって、時の流れは円をなしているわけではない。時の流れは線をなしている。そして、真っ直ぐに失われていく。静かに、美しく、ほろ苦く。

再び夏がやって来た。あれから、もう何回目の夏だろう?

その数が増えるにつれて、私はあの夏から遠ざかっている。遠ざかることで大切な思い出が、色褪せた過去になろうとしている。これ以上、あの夏から離れたくない。忘れたくない。もう一度だけ、近づきたい。

だから私は、歩き続けることにしたのだ。そして、カメラのシャッターを切り、フィルムに青を焼き付けることにしたのだ。私にとって青は大切な色。あの夏と繋がっている色。私がはじまった色。可能性を手放さないための色。あの夏の思い出が、今であり続けますように。アスペルジュ……。

水曜日

「かつて文字は、絵だったのよ」

まだ幼く小さな世界に属していた時期、ある人が僕にそう告げた。どういうわけか、一篇の詩を思い出すみたいに、その言葉が胸をかすめたのだ。だから、文字を絵として捉えてみよう、なんて思ったのかもしれない。

僕は本の頁を操る手を止めて、文字をジッと見つめた。

しかし、いつまでたっても文字は、文字のままだった。僕のスクエアな思考は、文字を絵として捉えてはくれなかった。かくなるうえは、そう捉えるためにレッスンをせねば。

夏の軽井沢のホテルのラウンジは、朝の爽やかな光に包まれていた。クラシカルな調度品、瑞々しい観葉植物、センスの良いコーヒーカップとソーサー、etc。全てが絵に描いたように輝いていた。

僕は瞼を薄く閉じると、目に入る景色の解像度を下げることにした。レッスンをはじめる前に、しばし休憩だ。

……。

ややあって、ホテルのスタッフの優美な声が聞こえてきた。僕は薄く閉じていた瞼を開けた。

「おやすみのところ失礼いたします。水野様。高橋様から、フロントにお電話が入っております」

「どうもありがとう」と僕はそっと礼を言い、フロントに向かった。そして、フロント係から受話器を受け取ると「もしもし」

「グッドモーニング」と、高橋のまぬけな声が聞こえてきた(彼は学生時代からの友人だ)。「水野、調子はどうだい?」

「上々さ」と僕は簡単に答えた。「そうだ、高橋。週末の天気予報だけど、お望み通り晴れだとさ」

「晴れ男がそっちに行くわけだから、当然だ」

 受話器からマッチの擦れる音と、タバコの焼ける音が聞こえた。タバコの匂いはしない。「で、用件は?」

「大した用件じゃないんだ。一応、確認しておこうと思ってさ」と高橋は言い、一呼吸置いて「水野が軽井沢にいるってことは、例のブツも一緒なんだな?」

「大丈夫だよ。心配するな。例のブツも一緒だ。そんなことより、本当にやるつもりなのかい?」

「もちろんさ。予定通りに計画は遂行する。だから、よろしく頼むぞ」

「わかったよ」

 僕は受話器を右手に持ち変えて軽く壁にもたれると、ロビーを行き交う人たちに視線を移した。すると、日傘を手に持ち、フィルムカメラのオリンパス・ペンをぶら下げて、ワンピースを着ているにもかかわらずランニングタイプのスニーカーを履いた女性が、目の前をスッと通り過ぎて行った(散歩にでも出かけるのだろうか?)。彼女の洗練された歩き方が目を引く。とくれば、纏っている時間に、特別な価値が宿っているようにも見えたりする。その手の女性は、人ごみの中でも目立つし、そうじゃないならなおさら目立つと相場は決まっている。

そして彼女は、外に出ると軽く空を仰いだ。まもなく日傘が開く。日傘の模様はボーダーだった。

「……なあ、水野。話聞いているのか?」

 僕は溜息をついてから答えた。「聞いているよ」

「じゃあ、返事ぐらいしろよ」

「忘れていた」

「たまげた。返事するのを忘れてたってのかよ」

「少し違う。電話中だったのを忘れていた」

「おいおい、そっちかい」と高橋は言い、重ねて「まぬけな気分にさせるなよ」

まあ、無理もない。「そんなことより高橋。いつ軽井沢に来るんだい?」

「仕事の都合上、金曜の夕方になるな」

「あいかわらず、忙しそうだな」

「まったくだ。誰かさんと違って」

「ご愁傷様」

 そして我々は、電話を終えた。

僕はラウンジに引き返すと、例のレッスンに取り掛かることにした。

三日前から、僕はこのクラシカルなホテルに滞在している。それは休暇と併せて高橋の結婚式に参加するためである。ちなみに、挙式は森の中に佇む教会で行われ、披露宴はカジュアルにレストランで催すとのこと(時間を気にせずにのんびりと楽しんでもらいたい、という新郎新婦の計らいだ。実にあの二人らしいじゃないか)。

ところでなぜ、新郎という重責を担った高橋が仕事をしているのに、僕は休暇中なのかというと、年間の事業活動を一一カ月で計画しているからである。一二カ月ではない。したがって、まるまる一カ月は休暇になる計算だ(断っておくが一一カ月はがむしゃらに働いている。おまけにハイリスクという代償は払っているつもりだ)。会社を辞めて独立したからこそ、それが可能なのだ。

僕が会社を去った理由についても話しておこう。

自分で言うのもなんだが、その理由は実にふざけている。というのも、妹の車選びに付き合った折、ディーラーのショールームでオープンカーを目の当たりにしたのが、それであるからだ。

それまで僕は、この世にオープンカーなる乗り物があることをすっかり忘れていた。どう考えても実用的でないから忘れていたのだろう。だからなのかもしれない。オープンカーがマス・プロの時代のアイロニーそのものに見えたのは。なんとまあ……。

「えっ、急になに言っているわけ」妹はのけぞるとそう言った。

「だから、このユーノス・ロードスター、買おうかなって言ったんだ。デザインもイカしているし、緑色もオサレだし」

「ねえ、ちょっと待って、それだけ?」

「ん、なにが」

「だから購入しようとした理由よ」

「だいたいそんなところだ、うむ」

「嘘でしょ」と妹は言い、口をあんぐり開けて僕と車を見比べた。「正直、相当どうかしているわよ」

「じゃあ、お前は、相当どうかした兄を持つ妹になるわけだ。おめでとう」

「そんな風に言うの、止してよ。気が滅入るわ」と妹は声をあげ、ずり落ちそうになったボスリントンのメガネの位置を直した。「んで、こんな実用性の欠片もない車を買ってどうするわけ? 表参道にでも乗り付けてガールハントするわけ?」

「その前に、勤めている会社でも辞めようかな。それから、お前の言うように、そうするのも悪かないか」僕はユーノス・ロードスターにそう告げた。なめらかなボンネットの表面には、首を左右に振り続けている妹の様子が映っていた。

「好きにすれば。もうどうなっても知らないわよ。今日、お兄ちゃんを誘ったのは、ランチをおごってもらうのが目的だったのにぃ」

「先週もランチをおごったような気がするんだけど?」

「そうかしら、気のせいよ」けんもほろろに答えて「それ、先々週の話よ」

 どうやら僕の妹は、ランチの話になると先週のことを先々週と数えるらしい。結構なことではないか。

ホテルのラウンジの時計は、一〇時二五分を指していた。もうかれこれ三〇分近くレッスンをしていたことになる。いささか疲れた。気分転換せねば。とくれば、天気も良いことだし、ユーノス・ロードスターを走らせて、美術館めぐりにでも出かけることにしよう。続きは、その後だ。

そして僕は、ラウンジを後にした。

昨日と同様、ホテルのキッチンでランチに食べるサンドイッチを作ってもらい、それを持ってユーノス・ロードスターに乗り込んだ。

夏の軽井沢の道を走るのは、実に気持ちがよかった。中でも爽やかな風が運んでくる木々の香りが、新鮮で申し分なかった。しかし、このシチュエーションに慣れてしまえば、もうそんな風に感じられないのかもしれない。その前に、充分に味わっておかねば。したがって、美術館まで遠回りすることにした。

そして僕は、適当に見繕った道を右に曲がった。

木漏れ日の群れがゆりかごよろしく揺れていたその道は、森の中に漂う妖精めいた気配もあってか、どこか印象派の画家が描いた絵を思わせた。

しばらくその道を進んでいると、こっちに向かって歩いて来る一人の女性が目に留まった。見覚えのある日傘とワンピース。それにオリンパス・ペンとスニーカー。ホテルのロビーで見かけた女性だ。

彼女との距離は、みるみる縮まっていった。僕はオープンカーの速度を緩めると、彼女の影を踏まないよう車を道の端に寄せた。それから、数秒後、我々はすれちがった。その瞬間、彼女のものとおぼしき声がした。おまけに、それは僕とあの人しか知らないはずの名詞でもあった。まさか!

僕はすかさずバックミラー越しに見える彼女の後ろ姿を確かめた。が、日傘がくるくると回っているだけで、何も読み取ることはできなかった(空耳だったのだろうか?)。

 それから、幾つかの美術館をめぐったのち、僕は見晴らしの良い高台に車を停めてサンドイッチを頂戴した。言わずもがなサンドイッチは抜群に美味しかった。

水曜日 2

例のブツにまつわる計画について話しておこう。

数カ月前の日曜日の長い午後のことである。しつこく鳴り続ける電話に出ると、高橋が前触れもなく用件を告げた。

「ユーノス・ロードスター、貸してくれないか?」

「急になぜ? 今まで散々バカにしてきたくせに」と僕は、他人事のように返事をした。というのも、妹が送ってよこした大量の本を整理していたからそうなったのだ(ちなみに、本を整理する前はハンカチにアイロンなんてものをかけていた。ようするに、それだけ暇だったのだ。珍しく)。「貸すのはやぶさかじゃないけど、理由ぐらい聞かせてくれたっていいんじゃないか?」

「そうだな。借りるには理由が必要だよな」

「まあな」

短い沈黙を挟むと、高橋はたどたどしく言った。

「映画のワンシーンを再現するんだよ」

「どうしてさ」あっけらかんと僕。

「鈍いな、水野」

「いや、そんなことないだろ。映画のワンシーンなんてものは、数えきれないくらい存在するもの。高橋がどの映画の、どのワンシーンのことを言ったのか、わかるはずもない」

「そうじゃなくて、金曜の夜、一緒に飲んだときに言ったじゃないか」

「……あっ! フォークにリンゴを突き刺したまま振り回して喋る彼女のことか?」

「そうだ。ちなみに春果が振り回すのは、リンゴだけじゃないぞ。モモに、キウイに、イチゴに、レモン。それにパスタだ」

僕はけらけらと笑った。「で、プロポーズは上手くいったのかい?」

「そこにオープンカーが登場するのさ」

「詳しく聞かせろよ」

 高橋は返事をすると話しはじめた。

「僕たちはもう二四歳になる。とは言いつつも、まだ吹けば飛ぶような二四歳でもある。いわゆるモラトリアムってわけだ。だから、ゴージャスな言葉を駆使して派手に告げるより、落ち着いた雰囲気の中、うやうやしく告げることにしたのさ。例の常套句ってやつを。で、土曜日に春果と映画を見に行くことにしたわけさ。まず映画という非現実的な世界に触れてから、気の利いたレストランで食事をしながらプロポーズするって魂胆さ。

案の定、その日は表情を工夫して映画を鑑賞する羽目になっちまった。そうだと知りもせず、春果は呑気に映画をご鑑賞ってわけさ。そのなんともいえない温度差が、心底緊張させるんだわ。まあ、そのおかげで、春果が呟いた言葉に気が付くことができたとも言えるわけだけど。

その時の映画のワンシーンというのは、挙式中の教会にボヘミアン風な男がオープンカーに乗って現れて花嫁をかっさらっていく、というお決まりのものだった。そういえば、大量の花束を積んだオープンカーのオーディオから、ミニー・リパートンの『ラヴィン・ユー』が流れていたっけな。その曲、春果のお気に入りなんだ。ともかく、ボヘミアン風な男は、花嫁をかっさらうと猛スピードで走り去って行くんだが、その時の花嫁ときたら、実に嬉しそうに男に抱き付いているわけさ。もう二度と離すものかって具合に。まったくもって、おめでたいシーンだったよ。まさにその時さ。春果がぽつりと呟いたんだ。あんな風に車に乗ってみたいって。それを耳にした僕は、どういうわけか言っちまったのさ。じゃあ、一緒に乗ろう。だから○○しよう、て」

肝心なセリフはかわされた。ま、それもそうか。僕はコメントを省略して口笛を吹いてみせた。

「てなわけで、水野。春果との約束を果たすためにも、お前のオープンカーが必要なんだ。それに、大量の花束があれば言うことなしだ。が、そこまでは無理を言うまい」

「わかったよ。で、いつ必要になる?」

「挙式の日だ」

僕は合点した。「なるほど。そういうことか。じゃあ、当日オープンカーをピカピカに磨いておくよ」

「サンキュー」

その時、本の頁をパラパラとめくっていた僕の手が止まった。そうさせたのは、本の頁に挟まっていた押し花である。小学六年生の頃の大切な思い出がつまっている押し花。てっきり失くしたと思っていたが、こんなところにあったとは(犯人は妹だったのか。いや、妹に本を貸したこの僕か)。

僕は本の頁から押し花をそっと取り出した。指先に淡い感触が宿った。

「なあ、高橋」

「ん?」

「挙式の日、晴れるといいな」僕はおめでとう、というニュアンスを込めてそう言った。

「ああ」

 そして我々は、電話を終えた。

それにしても見事なプロポーズだったな、とホッとしたのも束の間、押し花が胸を締め付けはじめた。あの痛みだ。忘れもしないあの夏の痛みだ。

木曜日

カーテンを開けると、霧を纏った雲が目にとまった。霧雨も降っている模様。とくれば、ユーノス・ロードスターで出かける気になれなかった。かといって、ふてくされてのらりくらりビールを飲む気にもなれなかった。したがって、ラウンジに行きコーヒーを飲みながら、例のレッスンに励むことにした。

僕は支度を済ませると、便箋とペンをポケットに突っ込んでラウンジに向かった。

ラウンジには昨日の日傘の女性がいた。といっても、今日は日傘を持っていなかった。その代わりにペンを持ち、システム手帳に文字をしたためていた(彼女もこのホテルに一人で滞在しているのだろうか?)。

僕は彼女と一つ席を隔てた窓際の席に腰を落ち着かせると、コーヒーを注文した。

やがてコーヒーが運ばれてくると、一口飲んでから便箋に『花』という文字を書いてみた(その文字をチョイスした理由はわからない。さしずめ無意識、といったところか)。

さてと、レッスン再開だ。

 だが、いくら眺めても、文字は文字であることに変わりはなかった。相変わらず僕のスクエアな思考は、文字を文字としてのみ認識する、という体たらくなのだ。

「なんとまあ……」

便箋の隅に猫のイラストを描くと、外の景色に目をやった(ちと気分転換せねば)。

そして僕は、カップを持ち上げてコーヒーを口にした。まさにその時だった。なんと! その一連の動作が、一つ席を隔てた日傘の女性とシンクロしてしまったのだ。おのずと二人の視線が出会う。出会ったら出会ったで、今度は瞬きがシンクロする。一回、二回、三回と。

こうなってしまったからには、ひとまず会釈(ドギマギして痛ましい会釈)をするしかなかった。

すると、彼女はやわらかく微笑み返してくれた。僕は本能に根差した何かに従って、彼女に声をかけることにした。

「僕、水野ヒカルっていいます」

彼女の唇は微かに震えているように見えた。続けて僕はこうも言った。

「二日前から、このホテルに宿泊しているんです。週末、友人の結婚式に参加……」と声え

が小さくなる。というのも、一〇時を知らせる時計の鐘が鳴りはじめたからだ。二人ともク

ラシカルな時計に目が奪われた。

僕は振子の動きに合わせて物静かに言った。

「昨日」

「キノウ?」彼女も振子の動きに合わせてそう言うと、小首を傾げた。

同じ意味を持つ言葉のはずだが、彼女の言った昨日には、未来というニュアンスも僅かに含まれているように思えた。

「そう、キノウ。散歩していましたよね。ボーダー模様の日傘をさして」

 一〇時を知らせる時計の鐘が鳴り止んだ。

水を打ったような静けさの中、「私の日傘、ドット模様よ」とだけ彼女は言った。

「へっ」どうしてくれる。

「ごめんね。冗談よ。ボーダー模様の日傘よ」と彼女は言い、クスッと笑った。「ねえ、それより」

「それより?」

「ありがとう。昨日、すれちがったときに私の影をよけてくれて」

 あえてそうしたことに気付いていたのか。驚いた。

「私、紺野マキっていうの」

「コンノ、マキ」無意識にその名前をおうむ返ししていた。

「ええ、そうよ。それが私の名前」と紺野マキは言い、続けて「昨日からこのホテルに宿泊しているの。そして、その目的は、偶然にもあなたと同じなのよ」

「てことは、君も友人の結婚式に出席するため、この軽井沢へ?」

返事の代わりに紺野マキは、あっさりと首をすくめてみせた。それから、コーヒーを口に運んだ。

驚きの連続である。それもあり、僕はこうも尋ねていた。

「もしかして、高橋?」

「信じられないかもしれないけど、そうよ」紺野マキはこともなげにそう答えると、目を伏せた。「新婦の友人なの、私」

 もうこうなれば、訊くしかあるまい。

「まさか例の計画も関係したりするのかな?」

「……それ関係するわね」

「もしかして、花束を準備する担当とか?」

「……うん」

「たまげた」と僕は言い、口をあんぐり開けた。

 それから、僕は紺野マキと同席すると、とりとめのない話をした。休日はコーヒーを飲みながらどんな本を読んでいるのか。何故、海辺で食べるホットドッグはとてつもなく美味しいのか。好きな季節はいつなのか。例の計画に使われる僕のオープンカーについて、etc。

堅苦しい話は省略、てな具合に仕事や人間関係のことは話題にのぼらなかった。

 ふと、クラシカルな時計の鐘が鳴っていることに、気が付いた(あれから一時間経過した、というのか。まさか)。

 時計が鳴り止むと、紺野マキはそっと言った。

「ねえ、どっち?」

何を質問されたのか、僕にはわかった。

「早く感じた。もう一時間経ったなんて信じられない。つい時計が壊れてしまったんじゃないかって、思ったくらいだもの」

「きっと壊れたのよ」

「まさか」

「時計じゃなくて、時間が壊れたのよ。そう思うと、世紀末感が増すじゃない?」

「確かに増すね」

「ねえ……」と紺野マキは言い、テーブルの上に両肘をついて左右の指を絡めた。「水野君って、ずいぶん変わっているわよ。見ず知らずの私に声をかけてくるし、何を質問したのかわかっちゃうし、ホテルのラウンジで便箋によくわからないこと書いているし」

「おまけに実用的とはいえない車を、一人で乗り回してもいる」と僕は言葉を重ねた。

「ほんとよね」

僕は気前よく笑って「ねえ、紺野さん。あの便箋に書いた文字には、ちゃんと意味があるんだ」

「どんな意味?」

「知りたい?」

 紺野マキは頷いた。

そして僕は、エレガントに咳払いをすると言った。

「かつて文字は絵だったんだ」

「それって、遥か昔のことでしょ?」

「そう遥か昔のこと。だけど事実でもある」

「わかったわ。それで?」

「昨日、本を読んでいたら、ふと文字を絵として捉えてみよう、なんて思ったんだ。本の頁を絵の集合体として捉えることができたのなら、どんな気分を味わえるのだろうか、てね」

「便箋に花という文字を書いて眺めていたのは、そのためのレッスンをしていたってわけ?」

「YES」と僕は、きっぱり答えた。

「冗談、言っているわけでもなさそうね」

「もちろん」

「そんな風に想像したこともないわ、私」

「じゃあ、軽く想像してみなよ」

「今?」

「うん」

「わかったわ」と紺野マキは答えた。そして、ゆっくり目を閉じた。

 ……。

彼女の長いまつ毛たちは、再び目が開かれるのを静かに待っていた。

片や僕といえば、便箋の上に影絵なんぞこしらえ待っていた。

空は雲でおおわれている。影絵の輪郭はぼやけていた。光の量が足りない。でも、曇りの日は、それが自然なのだ。必要以上のことを望んではいけない。それにしても、ずいぶん長い時間、目を閉じているではないか……。

 僕が影絵に集中している間に、紺野マキは目を開けていた。そして、便箋の上の影絵に目を落としていた(しばしの間、僕はそのことに気付かなかった)。

「それってカモメ?」と紺野マキはやおら言った。

「いや、ハトだよ」僕はシレっと答えた。

「いじわる」

紺野マキの表情は、目を閉じる以前と異なっていた。というのも、瞳に宿る潤いの量が増していたからだ。あと少し増していれば、涙とおぼしき液体が頬を伝って流れ落ちそうでもあった。

「紺野さん。想像してみてどうだった?」と僕は、コメントを促した。発せられるコメントと、彼女の表情になんらかの相関関係があるような気がしたのだ。

「そうね。秘密よ」と紺野マキは、静かに答えた(彼女の言う秘密は、上品で良い香りがするもののように思えた)。続けてこうも言った。

「でも、あえて一つだけ言うのなら」

「あえて一つ」僕はおうむ返しすると、息を止めた。

そうとは知らずに、紺野マキはたっぷり間を置いて答えた(苦しい……)。

「やっぱり止すわ、秘密よ。水野君ならその理由、わかるでしょ」

僕は大きく息を吸って吐いた。「わ、わからないよ」

「ど、どうしたの?」

「いや、なんでもないから」

 まるで金曜日の午後の大学のラウンジにでもいるかのようだった。無条件に楽しくて、根拠もなく何かが起こる期待に満ちている。したがって、僕は紺野マキと織りなすフィーリングが、アドホックなものではないと確かめるために、彼女を美術館めぐりへ誘ってみることにした。

「いいわよ」

 それが紺野マキの返事だった。ほんの少し意外であり、ほんの少し意外じゃなかった。

「もしかしてだけど、美術館めぐりは例のレッスンと関係したりするのかしら? 文字と絵、絵と文字、とかうんぬん」

「ご明察」

紺野マキはクスッと笑うと言った。「じゃあ、一二時にロビーに集合でいいかしら?」

「わかった。一二時だね」

 そして僕は、紺野マキを見送ると、ランチに食べる二人分のサンドイッチを頼んでから、部屋に戻った。

キッチンに立ち寄り紙袋とポットを受け取ると、僕はロビーの端の壁にもたれて彼女を待つことにした。

紙袋の中には、二人分のサンドイッチが入っているにもかかわらず、昨日よりも軽く感じた。そんなことよりも、今、自分がハミングなんかしていることに気付いた。浮かれすぎだ。でも、すいぶん懐かしい曲だったな。曲名はなんだっけ……。

そうこうしていると、一二時を知らせる時計の鐘がラウンジから聞こえてきた。その音に誘われるようにしてラウンジに視線を移すと、客は一人もいなかった。それなのに時計は、時刻を知らせていた。失われていく時間は、人のためだけにあるわけじゃないようだ。

時計の音が鳴り止むと同時に、紺野マキは鮮やかなブルーのワンピースにスニーカーという格好で、階段を小走りに降りてきた。髪をフワフワはずませて、口元を軽く引き締めて。そんな姿を目の当たりにしたら、誰だってくすぐったい気持ちになる。

「お待たせ。水野君、待った?」

「ううん。ちっとも」つい声が裏返ってしまった。

そんなことより紙袋が気になったのか、紺野マキは言った。

「ねえ、その紙袋の中、何が入っているの?」

「秘密さ」

「さっきの仕返しのつもり?」

「まあね」

「いじわる」

「僕もそう思う」

「それ可笑しい」と紺野マキは、言葉通りそう言った。

それから、彼女を駐車場までうやうやしくエスコートした。

今朝まで降った霧雨の影響なのか、ホテル周辺の森の中には濃い霧が立ち込めていた。まるでヘンゼルとグレーテルが迷い込んだ森のようである。

僕のユーノス・ロードスターは、そんな景色の中にいた。まるで絵本の頁に無造作に貼られた車のシールみたいに。

「どう、僕のオープンカー?」そう言って思ったが、ルーフを開けてみせればよかった。

紺野マキは絵本に出てくるニンフよろしく、物珍しそうにユーノス・ロードスターの周りを歩きだした。

「そうね……」とだけ言い、人差し指で唇を軽く叩いた。一回、二回、三回。

「紺野さん、車好き?」

「ストレートに答えても構わないかしら?」

僕は頷いた。

「じゃあ、遠慮なく言わせてもらうわね」そう明るく言ってのけると、紺野マキは首をすくめた。「車には全く興味がないの。だからノーコメント、ごめんね」

「ハハハハ」既に顔にそう書いてあった。また、車で走っていると見落とす景色が山ほどあるのよ、とも。「なるほど、道理で歩いている姿が絵になるわけだ」

「それ、お世辞でも嬉しいわ」

「お世辞じゃないよ。僕のストレートな感想だよ」

「そんな風に言われると、恥ずかしいわ」

「あ、そういえば、昨日すれちがったとき……」僕はすれちがった時に耳にした名詞について、尋ねようとしたのだ。

しかし、紺野マキは遮るように「あの」と言い、静かに目を伏せた。

さっきも、そんな素振りを見たような気がする。「あのって?」と僕はせっついた。

……。

ベールに包まれた沈黙だった。しかし、どこかで誰かが絵本の頁をめくったようで、物語は前に進んだ。

「さっ、行きましょう。美術館へ」と紺野マキは、遠くを見据えて言った。

「うん、そうだね」

 まだ空模様からして霧雨が降るかもしれなかった。したがって、ルーフを閉じたままユーノス・ロードスターを走らせることにした。

実を言うと、僕には彼女を誘った本当の理由がある。それは、紺野マキ、という名前と関係していた。

青のpressed flower 1

 紺野マキ。その名前と出会うのは、これで二度目だった。一度目は、小学生の時である。同級生の中にその人はいた。

彼女は公園の近くの一軒家に、両親と三人で暮らしていた。青い屋根の家で、庭には色とりどりの花々が咲いていた。

当時、僕は夕方になると彼女の家の近くの公園まで、猫を迎えに行くのがささやかな日課だった(僕の家の猫は、公園のベンチがいたくお気に召していたようで、毎日、渋い顔をして夕焼けに焦げていく街並を見守っていた。それが、彼のささやかな日課)。そして、猫を従えて家に帰る道すがら、庭の花々に水をあげている紺野マキと顔を合わせるのが、僕と一匹の大切な日課でもあった。

「ねえ、水野君。この頃、アスペルジュが公園に向かうとき、私の家の庭を横切って行くのよ」と紺野マキは言い、水を湛えた如雨露を地面に置いた。たったそれだけの仕草が、大人っぽく見えた。学校という集団生活の場だと、そうは見えないのに。

ところで、アスペルジュとは、僕の家の猫の名前である。フランス語でアスパラガスという意味だとか。

「知らなかった。迷惑じゃない?」と僕。

「ちっとも迷惑じゃないわよ。むしろ、気に入ってもらえて嬉しいわ。だって、自慢の庭だもの。あ、そうだ」

ふと何かを思い出したのか、紺野マキはアスペルジュの近くに寄ると、しゃがみ込んで彼のつぶらな瞳を覗き込んだ。

「紺野さん、どうしたの?」

「昔の人って、猫の目を見ると時間が分かったそうよ」

「へえ、そうなの」と僕は、あっさり答えた。

「意外。水野君、もっと驚くかと思った」

「驚いたよ。ただ……」

それよりも、彼女の白色のワンピースから覗いて見える胸元にハッとしたのだ。その様子をひた隠しにするため、無頓着を装ったのだ。

「ただって?」

「……やっぱ何でもない」

「変なの」

僕たちは学校にいる間、こんな風に会話をしなかった(最小限の会話に留めた)。二人と一匹で織りなす時間を秘密にするため、あえてそうすることにしたのだ。秘密にしていれば、永遠に失われない、と思っていたからだ。

アスペルジュが大きなあくびをした。それを見て紺野マキは微笑んだ。

「公園でたくさんお昼寝したのに、まだ眠いのかしら」

「こいつ、僕が迎えに行かないと夜まで、いや、きっと朝まで寝ているつもりなんだ」と言い、とぼけた顔をしているアスペルジュに向かって「その内、ぬいぐるみになるぞ」。

「それ可笑しい」と紺野マキは言い、クスッと笑った。「でも、アスペルジュに感謝しなくちゃ」

「なんで?」

「水野君。わからないの?」

「うん」わかっていても口にできるか。毎日、君と会えるからなんて。

紺野マキは頬をふくらませて不満をアピールしていた。が、また何かを思い出したらしく声をはずませて「ねえ、水野君。ボサノヴァって聴いたことある?」

「なにそれ? 知らない」

「ボサノヴァってね、ブラジル音楽のジャンルのことなの」

「ブラジルって」僕は地面を指さした。「ブラジル?」

「そうよ。ここから最も遠い国」紺野マキも地面を指さした。

「どのくらい遠いのかな?」

「わからないわ。もし、わかったとしても、うまく説明できないわ。だって、学校まで何回往復すればブラジルにたどり着くのかわかったとしても、ナンセンスじゃない」

「まあ、それもそうか」手に余る、と言うのであろう。それだけ、今僕たちの知る世界の規模は、小さいときている。

「ねえ、水野君。ちょっとここで待っていてくれる?」と紺野マキは言い残し、家の中に入った。間もなく階段を駆け上る音がする。

ややあって、二階の部屋の窓が開くと、紺野マキが顔を出して手を振った。

僕は鼻の下をこすってそれに応えた。すると、紺野マキは窓を開けたままにして、部屋の中にスッと姿を消してしまった。僕とアスペルジュは、何かが起こるのを大人しく待つことにした。

やがて開いている窓から、音楽が漏れてきた。はじめて聴くリズムと言葉。メロディーが柔らかく耳に染み込んでくる。これがボサノヴァなのか。どこか妖精めいている。

夕焼けに染まったたゆたうカーテンの隣で、やさしく打ち寄せる波の音に耳を澄ます、といった風に紺野マキは、窓辺から僕とアスペルジュを見つめていた。

片や僕とアスペルジュは、ぽっかり口を開けて紺野マキを見上げていた。その時、僕はあることを心に誓った。おそらく、彼女もそうだったに違いない。秘密の時間を重ねてきた二人には、それがわかる。

時間の流れは、季節が巡るみたいに円をなしていると思っていた。しかし、そうではなかった。時の流れは、終わりに向かって真っすぐ進んで行くのだ。だから、この世に永遠なんてものは、存在しない。

小学六年生の初夏のことである。紺野マキは遠くの街へと引っ越して行くことになった。信じられなかった。嘘だと言ってほしかった。

最後に彼女と会って話をしたのは、引っ越しを翌日に控えた夕方だった。いつも通りを装って話をしていたのだが、ふと言葉につまってしまった。

……。

今から思えば、二人だけの小さな世界が終わるとき、言葉よりも肌で感じる何かが必要だったのかもしれない。直接、肌と肌で感じあえる何かだ(彼女はそれを求めていた、というのか?)。

当時、僕にはそれが何なのかわからなかった。だから、彼女の日焼けした肌、クローバーで編んだブレスレット、耳に挿した白い花、小さな笑窪、潤んだ瞳を目に焼き付けていた。

いつしか夜の気配が辺りに漂いはじめていた。意に反して暗さが増す。家の中から紺野マキの母親の声が聞こえてくる。明日の朝は早いから、もう家の中に入りなさい、と言っていた。

僕が話の接ぎ穂を得られずにいると、紺野マキが口を開いた。

「あいかわらずね、水野君って」

「どういうこと?」

「言葉通りの意味、だったらどうかな」紺野マキは言い淀むと、俯いた。「もう行かなくちゃ」

「あ、うん」

「最後にアスペルジュ、抱かせて」

「いいよ」

 二人の距離が縮まって、淡い影が一つに重なった。

アスペルジュは僕の腕の中から、紺野マキの腕の中にそっと潜り込んだ。いつもいうことをきかないアスペルジュが、やけに素直だった。

「ふわふわしていて気持ちいい」頬ずりをして「元気でね。アスペルジュ」

「ねえ、紺野さん。また、会えるよね?」

僕は恐る恐るそう言った。ネガティブな言葉が返ってきそうで、怖かったのだ。

「会えるわ。でも……」

「でも?」

「この先、願っているだけじゃ会えない気がする」目を伏せると「だって、どんなに二人で願っても、この引っ越しは避けられなかったじゃない」

 紺野マキの声は、震えていた。胸にクるものがあった。

確かに、彼女が言うように僕たちは願い続けた。その結果が、これだ。

「もう、願わないよ。願うもんか。だから行動する。例えば、えっと、えっと……」と声が小さくなる。何も思い浮かばないのか! 「えっと、だから……」

 僕をなぐさめるようにしてアスペルジュが鳴いた。重ねて紺野マキが言った。

「ありがとう、水野君。確かに行動を起こさないと、もう会えないような気がする。でも、それができるのは、もう少し経ってからのような気がする。今の私たちは、小さくて弱いから。それに、色々と世の中のことだってわかってないもの」

「そうだね。小さいし弱い。まだ知らないことだって山ほどある」と僕は、自分の手を見つめて言った。頼りがいのない小さな手だった。早く大きくなりたいと思った。

「でも、その代わり私たちには、可能性があるわ。何にだってなれるし、どこにだって行ける可能性が」

「カノウセイ?」

「そうよ。カノウセイ」と紺野マキは言い、僕の手を見て「それを手放しちゃだめよ」。

「そうだね」今、僕の小さな手が掴めるものは、それしかないように思えた。いや、それしかないのだ。「手放すものか」

 再び家の中から母親の声が聞こえてきた。紺野マキは首をすくめると、僕にアスペルジュを返した。アスペルジュの名残惜しそうな声を耳にして、センチメンタルな気持ちが増幅した。僕は目をしばたたいて涙をこらえた。

 紺野マキは日が沈みわずかな隙に訪れる黒く青い空を仰いでいた。その目からは光るものがつたっていた。

「ねえ、水野君。どうして夜空って黒いのかしら?」と紺野マキは、小さな声で言った。

 確かに、どうして夜空は黒いのだろう? 今までそんな風に考えたこともなかった。当たり前だと思っていた。が、そこには黒くなる理由があるのだろう。彼女の感性に触れる度、僕はハッとした。

「紺野さん」

「なに?」

濡れた紺野マキの切実な目は、美しかった。怖いくらいに。

「その理由、僕に調べさせて」

「えっ」

「調べてみたいんだ」

「……わかったわ。じゃあ、いつか教えてね」

「うん」と僕は返事をした。それから、別れの挨拶を告げた。「さようなら」口の中がほろ苦かった。

「うん。さようなら」

そして僕は、回れ右をした。すると、アスペルジュが爪を立てた。「うわ」

「どうしたの?」

「いや、なんでもないよ。それより紺野さん」

「なに?」

「必ず迎えに行くから」と僕は頭に浮かんだ言葉を、そのまま口にした。ああだこうだ考えず告げたわりに、最も伝えたいニュアンスが含まれていた。

「うん。じゃあ待っているわね」と紺野マキは言い、首を傾げて微笑んだ。

ほんの一瞬、不安が溶けた。ありがとう、アスペルジュ。

「おやすみ。紺野さん」

「おやすみなさい。水野君」

 帰り道、僕の胸は激しく痛みだした。雪崩をうって押し寄せるその痛みは、今まで感じたこともない痛みだった。それをどう扱ったらよいのか、わかるはずもない。ただただ、歯を食いしばって耐えるしかなかった。

翌朝、目覚めたら日常の全ての肌触りが変わっていた。

紺野マキがこの街を去った後も、僕とアスペルジュは日課を続けた。彼女の家の前で立ち止まり、彼女の部屋を眺めてボサノヴァのメロディーをハミングした。また、水筒に入れてきた水を花壇に撒いたりもした。しかし、花たちは日に日に萎れていってしまった(それを見るのは辛かった)。だから、全てが萎れてしまう前に、咲き残っていた一輪の青い花を摘んで押し花にした。

押し花は、過去に二人の時間が存在した唯一の証となった。

それから何年もの年月が経った。

その間、僕は紺野マキの行方を捜した。が、捜しあぐねてしまった。また、年月の経過とともに、押し花を失くしてしまった。いつ、どこで、だれが、なぜ、どのように? さえわからなかった。最低だ。いや、それ以上か。

しかし、とある日曜日の午後、高橋との電話の最中、たまたま手にしていた本の中から押し花を見つけた。押し花は最後に見かけた時よりも、わずかに色褪せているだけだった。本の中では、時間はゆっくりと進むのかもしれない。

その押し花を本の中に忍ばせて、僕はこの軽井沢にやって来た。そして、紺野マキという同姓同名の人物に出会った。それは願いでも、行動でもなかった。いわば統計的に訪れる可能性を帯びた偶然である。必然性の欠片は、どこにも見当たらない。

木曜日 2

雲間から太陽光が降り注いでいた。天使様が舞い降りて来て、幸あれ、と言わんばかりに神秘的な光景である。

到着した美術館の敷地内には、夏の花々が生い茂っていた。うむ、これなら……。

ユーノス・ロードスターを運転中、追憶に取りつかれてしまった僕は、フラワーガーデンとレストランが併設された美術館に車を走らせた。その理由は言うまでもない。

「少し見ても構わない?」

 オープンカーから降り立った紺野マキは、美術館の方角ではなくフラワーガーデンを指差してそう言った。

「もちろんさ」と僕は、こともなげに答えた(それは僕の望んだことでもある)。

 紺野マキはミツバチよろしく次から次へと、花々を見て回った。たゆたうワンピースの裾、軽やかなスニーカーの動き、プロ顔負けのオリンパス・ペンを構える姿。そして、シャッターが切られるまでのくすぐったい沈黙。被写体である花々は、今朝降った霧雨に濡れていた。まるで如雨露で水を浴びたみたいに。あの庭の花みたいに。

僕は反射的に手のひらを見た。あの頃と違って大きな手だった。そのギャップに追憶と現実の距離が縮まっていくのを感じた。そして、その二つは交わろうとしていた。交わったその先にあるものは……。彼女は僕の知っている紺野マキ、とでもいうのか。いや、まさか。ありえない。

そして僕は、追憶と現実が一定の距離を保つよう心掛けることにした。物語めいた出来事は儚い、というジンクスが僕をそうさせたのだ。

「水野君、どうしたの?」

「ん、なんでもないよ」と僕は、能天気な声を出してはぐらかした。

 それを受けて紺野マキは、私の気のせい? というようなジェスチャーをしてオリンパス・ペンを肩にかけた(写真はもういいのだろうか?)。

「ねえ、一つ提案があるんだけど」

「どんな提案?」

「その前に、笑わないって約束して」

「わかった約束する」

紺野マキは一呼吸置くと明るく言ってのけた。

「おなかすいちゃった、私。だから、先にレストランでランチを食べて その後、ゆっくり絵を鑑賞するのはどうかしら?」

「ハハハハ」笑ってしまった。だって、開けっ広げでいいじゃないか。黙って楽しむなんて無理だ。

「約束、反故にしないでよね。水野君」と紺野マキは、目を細めて心の無い声で言った。

「ごめん、ごめん」と僕は謝った。そして、トートバッグから紙袋を取り出すと「紺野さん、今直ぐここでランチにありつけるよ。ホテルでサンドイッチ作ってもらったんだ。それにコーヒーだって、ほら」

「その紙袋の中身は、サンドイッチだったわけね」

「YES。僕が軽井沢で一番美味しいと太鼓判を押すサンドイッチさ」

「じゃあ、これから私たちは、あの木漏れ日が鏤められたベンチに腰掛けて、花を愛でながらサンドイッチを賞味できるのね。楽しみ」

正におあつらえ向きなベンチではないか。

 軽井沢に来てからというもの僕は、すっかりサンドイッチ・フリークになってしまった。それに、昨日といい、今日といい、美味しく頂戴するためにシチュエーションにもこだわる、という体たらくなのだ(すっかり風流な輩になってしまった)。

 僕たちは絵に描いた様な軽井沢の片隅で、サンドイッチと、フルーティーなテイストのコーヒーをのんびりと口に運んだ。

 その間、僕は追憶と現実が交わらないよう、丸い四角なる物体について適度に考えていた(いわゆる哲学の真似事だ)。その効果はてきめんだった。とくれば、もう大丈夫だろう。思う存分満ち足りた気分に浸らねば。ふへ……。

予想だにしないこと、というのはそんな折に訪れたりする。その演出なのだろう。爽やかな風が止む。静寂が舞い降りて静止画のような空間が広がる。そして、遠くを見据えていた紺野マキが呟く。「アスペルジュ」と……。

僕の呼吸は止まった。

軽井沢でその名詞を耳にしたのは、これで二度目だった。一度目は、昨日、彼女とすれちがった時である。空耳だったかもしれないが、あの瞬間、僕はその名詞を耳にした、と思った。しかし、今は違った。空耳じゃない。僕はこの目で紺野マキの口から野に放たれる瞬間を見た。アスペルジュ……。胸が痛い。あの痛みだ。あの夏の痛み。呼吸のリズムが変わる。じんわりと汗ばむ。手のひらの中で追憶と現実が一つになる。  

「紺野さん」僕の声は震えていた。

「ん、なに?」

「今、アスペルジュって言ったよね?」

「あ、うん。言ったかもしれないわね。アスペルジュの入ったサンドイッチが美味しくて、思わず口からこぼれたのね」

僕は矢継ぎ早に質問を述べ立てた。

「紺野さん。小学六年生の夏に引っ越した経験ってある? フランス語に詳しいの? 普段からアスパラガスのこと、アスペルジュって言うの?」続けて「昔の人は猫の目を見て時間がわかったとか知っているの? ボサノヴァ好きでしょ? どうして夜空が黒いのか疑問に思ったことあるでしょ? 花を育てるのが好きでしょ? 小学生の頃、その花たちに水を撒くのが、日課だったでしょ?」

 紺野マキは目をぱちくりさせていた。

「急に質問ばかりして、どうしたの?」そして、こうも言った。「水野君は、小学六年生の頃の私に、興味があるの?」

僕は頷いた。

「今の私より?」

「かつて過去は、今でもあった」

「ペダンチックなこと言うのね」

 物語めいた出来事は儚い、というジンクスに怯えているのであれば、これより先に進めない気がした。だから、僕は刹那的に意思決定をくだした。

「紺野さん」

「なに?」

「あの夏……」握りしめていた手のひらが、焼けるように熱くなった。「小学六年生のあの夏」

「ねえ、水野君」と紺野マキは、口を挟んだ。それから、静かな目をして唱えた。「だめ、言っちゃだめ。言わないで、お願いだから」

「えっ……」

思春期の記憶を安易にアウトプットすることは、危険なことなのかもしれない。人は記憶によって傷つくからだ。過去に重心が奪われてしまい、今がよく見えなくなってしまうからだ(現に僕がそうだ)。きっと彼女はそれを感じ取ったのだ。感じ取ったからこそ、あんな風に言ったのだ。だから、僕の知っている紺野マキ、という証明にはならない。

僕は気分を変えるために、太ももを抓り花の香りを胸いっぱい吸い込んだ。うむ、大丈夫。もうこんな言葉だってひねり出せる。

「さて、お腹も満たされたことだし、レッスンに励むとするか」

「水野君」

「ん?」

……。

 言葉を選んでいる沈黙のようでもあり、手紙の封が切られる間の沈黙のようでもあった。しかし、再び誰かが絵本の頁をめくったようで、物語は前に進んだ。

「サンドイッチ、美味しかったわ。ご馳走様でした」

 その後、我々は美術館を巡った。

新たな美術館へ到着する度、紺野マキはオリンパス・ペンのシャッターを切り、夏の軽井沢の景色を写真に収めた。

彼女がそうしている間、僕は鑑賞してきた絵を参考に、例のレッスン(イメージトレーニング)に励んだ。その成果は、言うまい。

美術館巡りを終えた僕たちは、御牧ケ原台地という場所に行き、離山と浅間山を眺めることにした。

目的地に到着すると、絶好のビューポイントに車を駐車した。それから、ユーノス・ロードスターにもたれて、夕焼けに焦げゆく景色を見つめていた。三三五五と遠くに見える建物が、ミニチュアのようで可愛かった。そよ風がくすぐったかった。心ゆくまで絶景を堪能することができた。味わい深い夏の一時だった。

ホテルに着くと、明日、フラワーショップへ一緒に行く約束をした(その次の日は、高橋の結婚式である)。それから「おやすみ」と挨拶を交わして別れた。

 その後、僕はラジオを点けて野球中継を聞きながら缶ビールを飲んだ(ビールの空き缶は例の計画の小道具にする予定だ)。それから、ベッドに横たわり寝ようとしたのだが、なんだか落ち着かず眠れなかった。したがって、夜の散歩に出かけることにした。

気持ちを整理するための散歩だったが、昼間、追憶に重心を奪われたせいもあり、思春期に見た景色を思い出す羽目になった。通学で使った道、グラウンドから見上げた校舎、放課後の教室、夏の日差しを浴びたプール、雑草だらけの花壇、屋上から見えるごくありふれた街並み。それらは、色褪せた過去の景色にすぎなかった。それなのに、胸が痛んだ。それだけじゃない。僕はその痛みを恐れた。きっと、傷つくことを恐れたのだろう。そうまでして僕は、何を守ろうとしているのだろうか? その何かは、僕にとって大切なものなのだろうか? 僕は僕自身のことをよく知らないでいる。

 次の瞬間、宙に舞う淡いドットのような光が目に留まった。

その光の持ち主は蛍だった。蛍は優美に光を放つと、まるで淡雪が解けるみたいに光を弱めた。たったそれだけのことが、現実の世界の出来事に思えなかった。どこか妖精めいている。真のファクトとは、そういうものなのかもしれない。

 どのくらいの時間、夜の散歩、いや夜の迷路を歩いていたのだろう。僕の体はくたくただった。でも、そのおかげで意識より無意識の感覚が勝り自然体になれた。

 だからなのかもしれない。ホテルに着くと、彼女がいるにもかかわらず僕は驚かなかった。

紺野マキは一人でユーノス・ロードスターにもたれていた。そして、オリンパス・ペンのレンズを、夏の夜空に向けていた。

僕は彼女に声をかけた。

「紺野さん。なにを見ているの?」

「さあ、なにを見ているのかしら、私」と紺野マキは、しっぽり答えた。「水野君こそ、夜の散歩はどうだった?」

「悪くなかったよ」

「どんなところが?」

自然体になれたこと、とは答えずにこう言った。

「気持ちを整理するために散歩していたんだ」

「あら、そ」紺野マキはオリンパス・ペンのレンズを夜空に向けたままそう言った。それから、こうも言った。「私も夜空を見上げてそうしていたのかも」

お互いその理由について、尋ねようとはしなかった。

 ひとまず、僕もオープンカーにもたれた。すると紺野マキからオリンパス・ペンを手渡された。

手渡されたオリンパス・ペンで夜空を覗くと、紺野マキは夏の星座の位置を教えてくれた。白鳥座、こと座、ヘルクレス座、いるか座、わし座、へび座、いて座、さそり座。レンズ越しに見る星たちは、艶を帯びていた。

「ねえ、水野君。一つ尋ねても構わない?」

「もちろん。なんなりと」と僕は、カメラを夜空に向けたまま答えた。

「じゃあ、遠慮なく」それから、小さな咳払いをして「プロセスを経ずに結果を得るってどう思う?」

「そんな時は、結果の後にプロセスを経ればいいんじゃないかな」

「それ可笑しい。でも、納得。ありがとう」

「どういたしまして。ねえ、紺野さん。押し花座ってあるんでしたっけ?」

「水野君が新しい星を見つければ、それは存在する星座になるわね」

「じゃあ、今のところ、どこかの星と星との間にあるわけだ」

「可能性を手放さなければ、そうなるわね」

「カノウセイか」

「そう、カノウセイよ」

「もう手放したくない」と僕は口にした。そして、オリンパス・ペンのレンズを夏の夜空から紺野マキに向けると、ピントを合わせた。レンズ越しに見える彼女は、はにかんだ様子で瞬きをしていた。瞬きする度、その瞳には艶が増していった。綺麗だった。だから、フィルムを巻くとシャッターを切った。乾いた音が鳴る。

「バカ……」と紺野マキは、そっと言った。

「ごめん」

「ねえ、昼間」

「昼間?」

「サンドイッチを食べているとき」

「うん、サンドイッチ」

「水野君。小学六年生の頃について、尋ねたでしょ?」

僕は頷いた。

「その時、どうして夜空は黒いのか? とか言っていたよね」

「うん、言った」

「それ、すごく興味があるの。今までそんな風に考えたことがないからだと思う。だから気になっちゃって」と紺野マキは言った。「水野君。その理由、知っているの?」

「まあ、簡単にだけど……」

「よかったら、聞かせてくれる?」

 僕はオリンパス・ペンを紺野マキに手渡した。

「いいよ」

「ありがとう」

 そして僕は、紺野マキにその理由を話しはじめた。

「夜空、もとい宇宙は有限だから黒いんだ。ここでいう有限というのは、あくまで見える範囲が有限という意味。つまり、宇宙が生まれて一二〇億年くらい経つけど、半径一二〇億年より遠い場所には、まだ光が届いていないというわけ。だから、夜空は黒いらしい。それと、もう一つ。もし宇宙に果てがあるのなら、そこに光が突き当たり反射して戻って来るはず。だけど、未だに光は反射して戻って来ていない。と考えるに、いつか光が反射して戻ってきたのなら、夜空は今と違う色になるのかもしれない」

「ロマンチックね。いったいどんな色になるのかしら」と紺野マキは、目を細めて言った。「ねえ、もっとなにか話して?」

「夜空にまつわること?」

「言わなくてもわかるでしょ?」

「わかった。じゃあ……」しばし考えてから、再び話しはじめた。

「大昔、星が爆発して原子が作られた。その原子で僕たちは形成されている。つまり、僕たちは星のかけらでもあるんだ。とくれば、夜空に瞬く星たちは、生みの親でもあり家族みたいなもの、とも言える。だけど宇宙にしてみれば、全ての星と僕たちは、おまけみたいな存在らしい。宇宙にとって重要なのは、まだ解明されていない未知なる物質や、エネルギーなんだ。それらが宇宙全体の大部分を占めていて、重要な役割を担っているのだとか。片や、全ての星と僕たちが担っている役割は、とても小さいらしい。あろうことか、全ての星と僕たちがなくなったとしても、宇宙には何ら影響がないのだとか。つまり、宇宙にとって僕たちが必要不可欠な存在だと思っているのは、僕たちの一方的な思い込みでもあるんだ」

「その話、胸がジーンとした」と紺野マキは言い、オリンパス・ペンのレンズを僕に向けた。そして、フィルムを巻きシャッターを切った。乾いた音が鳴る。

頭が空っぽになった。僕はレンズの先にあるはずの、彼女の瞳を見て告げた。

「真のファクトは、妖精めいているんだ」

「真のファクトは、妖精めいているのね」

 そして夜は、静かに更けていった。

金曜日

目覚めると予報通り晴れだった。いや、よくよく見ると、予報とはいささか違っている模様。というのも、単なる晴れじゃなかったのだ。白いシャツが青く染まってしまいそうなくらいピーカンなのだ。

一九九六年七月五日の新聞を折りたたむと、クロワッサンで口をいっぱいにしてコーヒーで流し込んだ。てな具合にレストランで朝食と済ませると、僕は部屋に戻りソファーに深くもたれた。それから、本の中から押し花を取り出して、レッスンそっちのけで眺めることにした。

ん、花弁の青さが増しているような。これも今日の天気のせいなのだろうか? まさか……。そういえば、この花の名前はなんだっけ? 小学生の頃、紺野マキから教えてもらったのに、すっかり忘れてしまった。そうだ、今日、尋ねてみようか。尋ねていいわけがなかろう。彼女は僕の知っている紺野マキじゃない、というのに……。

約束した時間よりも前に、ラウンジに着いた。が、すでに紺野マキがいた。白のカットソーと、オリーブ色のフレアースカートと、スニーカーがとてもよく似合っていた。また、テーブルの上にはコーヒーカップと、オリンパス・ペンが陣取っていて、隣の席には麦わら帽子と、トートバッグと、紙袋が陣取っていた。つい鼻の下を伸ばすところだったが、なんとか表情を工夫することができた。 

「おはよう。紺野さん。早いね」

 紺野マキはコーヒーカップを両手で包み込むようにして持ち、口元を隠して言った。「うん。おはよう。すごくいい天気ね」

「うん。そうだね」

「絵に描いた様な青空」

「うん。そうだね」

「きっと暑くなるわ」

「うん。そうだね」

「コーヒー、美味しい」

「うん。そうだね」

「水野君さっきから、そうだね、しか言わない」

「まあ、そうだね」

「ほら、また」

舞い上がってしまっているから仕方がない。落ち着け。

「紺野さん。その紙袋の中には、なにが入っているの?」

「秘密よ」

「また秘密が増えたけど、重たくない?」

「そうね。今のところ平気よ」

「もし平気じゃなくなったら、いつでも手伝うよ」

「ありがとう。じゃあ、その折はよろしく頼むわね」と、けろりと紺野マキ。「そんなことより、水野君のレッスンの邪魔していない? 私」

「僕こそ、紺野さんの散歩の邪魔していない?」

紺野マキは首を左右に振って答えた。「ううん、そんなことないよ」

「あ、じゃあ、一つ提案があるんだけど」と僕は閃いた。

「なにかしら?」

「フラワーショップまで、歩いて行くのはどう?」

紺野マキは驚いた表情を浮かべていた。その中に潜む喜びとおぼしき感情を、僕は見逃さなかった。

「私は構わないんだけど……。水野君、けっこう歩くわよ。いいの?」

「じゃあ、決まりだね」と僕は明るく言ってのけた。なんだか素敵な一日になる気がした(それにしてもはしゃぎ過ぎだ。落ち着け)。

我々はホテルを後にすると、軽井沢の小道をのんびり歩きはじめた。

紺野マキは歩きながら、オリンパス・ペンで植物の写真を撮っていた。写真もそうだが、歩くことが好きなんだな、とつくづく思った。

そうこうしていると、一昨日、二人がすれ違ったポイントに差し掛かった。僕は出会ってから三日目(その内の一日は、この場所ですれちがったにすぎない)という事実を改めて心にとどめた。追憶と距離をおくためにも、そうすることにしたのだ。

目的のフラワーショップに到着すると、紺野マキは女性の店員と花束についての打ち合わせをはじめた(電話でアポイントを取っていたようだ)。

まるで古くからの友人の名前を口にするみたいに、二人は花の名前を呼びあっていた。また、日常で使われる言葉は影をひそめ、花にまつわる言葉が中心となった(ここでは花が主役だからそれもそうか)。

暇を持て余していた僕は、押し花と同じ花があるか探してみることにした。

しかし、目的の花はあったのか、なかったのか、よくわからなかった。花を観賞する習慣を身につけておけばよかったと後悔した。

「水野君。なにか探しているの?」

後ろから紺野マキの声がした。思わずビクッとしたが、その反動を利用して回れ右をした。

「ん、ただ眺めていただけだよ」嘘をついてしまった。まったく。

「そうは、見えなかったんだけど」

「そっかな、気のせいだよ。それはそうと、どんな花束になるか楽しみ」

「それ期待していいわよ」と紺野マキは、キッパリ言った。「あっそうだ、水野君。その花束を受け取る方法なんだけど、会場に届けてもらう? それとも、お店に取りに来る?」

「朝一番、取りに来るよ」

「わかったわ。私は色々と準備があって、一緒に来られないけど、それでも構わない?」

「僕も新郎と約束があったりするから、それでかまわないよ」

「じゃあ、明日は直接、会場で落ち合いましょう」

「そうだね。楽しみにしている」

「私も」

 それから、我々はフラワーショップを後にした。

ひとまず、軽井沢駅から続く人の流れにそって旧軽井沢銀座通りに向かうことにした。観光シーズンだということもあり、旧軽井沢銀座通りは賑わっていた。各々ショッピングを楽しんだり、カフェでお喋りに打ち興じたり、記念写真を撮ったりしている。まさに夏の軽井沢そのものである。

時間と共に気温は上昇していった。また、時間と共に夏は深まっていった。

紺野マキはオリンパス・ペンをトートバッグにしまうと(撮りたい景色がなかったのだろうか?)、麦わら帽子をかぶり直した。少し歩調が乱れる。僕はさりげなく腕時計を見たりして歩調を合わせる、なんてことをしてみせた。ともあれ、時刻は十時二十分だった。さて、まだ早いが、今日は……。

「今、水野君の考えていること、当ててみようか?」

突然、紺野マキは髪を一房ねじりながらそう言った。答えに自信あり、と言わんばかりに。

「自信あるんだ」

「まあ、あるかな」

「じゃあ、教えて」

「いいわよ」と紺野マキは言い、エレガントに咳払いをして「今日のランチタイム、どんなシチュエーションでサンドイッチを賞味しようか、あれこれ考え中」

「驚いた。正解だよ」

 本当に正解だった。続けて僕は言った。

「ちなみに、どんなシチュエーションだと思う?」

「そうね……」数回、指で唇を叩くと答えた。「本物の夏を感じられる場所だと思うわ」

「その描写いいね」とコメントして「実は具体的に思い描いたシチュエーション、というか場所があって、そこには、大きな湖があるんだ。きっと花だってたくさん咲いている」

「素敵。やっぱり本物の夏らしい場所だわ」

「でも、ここから遠いんだ」

「どのくらい遠いの?」

「電車とバスを乗り継いで、二時間半くらいかな?」

「ふーん。でも、水野君、そこに行きたいんでしょ」

「まあ、そうだけど……」と声が小さくなる。少し現実的じゃない、と思ったのだ。

「ねえ、どうして行きたいのか、理由聞かせて」

「理由って程でもないんだけど……。軽井沢に来る前、信州の地図を眺めていたら、偶然その湖を見つけたんだ。それ以来、そこが気になって」と僕は言い、首をすくめてみせた。

「時には直感でなにかを掴むことも大切よ。全てが合理的だなんてある意味、病的なことなんだから。ねえ、水野君。今からそこに行きましょうよ」

「えっ……」

「この後、なにか予定あるの?」

「ないけど」

「じゃあ決まりね」と紺野マキははずんだ声で締めくくり、トートバッグからオリンパス・ペンを取り出すと首を傾げてみせた(それを見てNOと言えるわけがなかろう)。

 そして我々は、旧軽井沢銀座通りから軽井沢駅へ踵を返すと、下りの電車に乗り長野駅へと向かった。

電車が駅に停まる度、初めて聞く駅名がアナウンスされた。せっかくだからその名前の由来について、あれこれ意見交換させてもらった。

そうこうしていると、電車は長野駅に到着した。

今度はバスに乗り換えて、白馬駅に向かった。バスは黙々と山道を登り続けた。その道すがら、停車してドアが開く度、セミの鳴き声が雪崩を打って押し寄せてきた(なんとまあ、情熱的だこと)。

バスが白馬駅に到着すると、再び電車に乗った。二両編成の小さな電車は、牧歌的な景色の中をゆっくりと進んだ。目的地はもう直ぐである。

「その曲、好きなの?」

 不意に紺野マキは、ポツリと言った。というのも、その時、僕は遠くを見ながらハミングなんかしていたのだ。もちろん、無意識だった。だから、曲名なんてわかるはずもない。てか、そんなことをしていただなんて、恥ずかしすぎる。どうしてくれる、自分よ。

「あ、見えた」と僕は、はぐらかした。

「どこどこ」と紺野マキは言い、進行方向をジッと見つめて「大きな湖なんて見えないわよ」

「気のせいだったのかな」

「……水野君。からかってない?」

YES、と言えるわけがなかろう。

金曜日 2

稲尾駅のホームに降り立つと、眼下には木崎湖が広がって見えた。想像していたよりも大きかった。かといって、単に大きいだけではなく、上品な印象も受けた。また、離れた場所からでも伺える、透明度の高さが凛とした静けさを演出していた(たまげた。最高のロケーションではないか。この手の景色に出会うため、彼のスナフキンは旅をしているのかもしれない)。

そして僕は、視線を木崎湖から、紺野マキに移した。

案の定、紺野マキはオリンパス・ペンのシャッターを切り続けていた(感想を述べ合うのは、二の次というわけか)。その様子が可笑しかった。素直に可愛い人だな、と思った。また、うむ、こうじゃなくちゃ、とも思った。

「ん、どうしたの?」と紺野マキは、こともなげに言った。

「いや、なんでもないよ。続けて」

「変なの。水野君」あっさり締めくくると、オリンパス・ペンを構えファインダーを覗き込んだ。「素敵な景色」

「うん」

「綺麗な青ね」

 紺野マキが言った青というのは、湖の青を指したのだろうか? それとも、空の青を指したのだろうか? それ以外に青はないはず。じゃあ……。

「綺麗だね。空の青」

「湖の青もね」

 両方か。

続けて紺野マキは言った。

「それに……あ、そうだ。水野君の直感に感謝するのを忘れていたわ」と紺野マキは言い、カメラを肩にかけた。それから、かしこまるとカーテシーをしてみせた。

 僕は鼻の下を擦りながら、ためつすがめつその様子を拝ませてもらった(とても人様にお見せできる顔ではなかったはずだ。誰か顔面めがけてパイでも投げてくれ!)

稲尾駅を後にすると、我々は湖畔を歩きはじめた。ともあれ、一周してみることにしたのだ。時間は十二分にあるもの。

湖面には入道雲が映っていた。透明度が高いおかげで、湖面に映る景色の解像度は抜群に高かった。まばゆい光の群れが湖面に散っていなければ、はたまた、どこかで魚が跳ねて湖面に波紋が広がらなければ、本物の景色と見間違うほどだった。

時折吹く北風が、白馬三山のエッセンスを運んできてくれた。熱を帯びた肌にこれ以上ない涼を届けてくれた。また、風と共に花や草が一斉にフォックストロットのステップよろしくダンスをはじめるのだが、紺野マキのオリンパス・ペンはその瞬間を見逃さなかった。鮮やかな手際である。

しばし歩いたところで、ランチタイムにおあつらえ向きな公園を見つけた。そして、ベンチに腰掛けると、サンドイッチ(今日はアボカドが入ったサンドイッチだった)を頂戴した。もはや言うまでもないが、サンドイッチは美味しかった。最高のシチュエーションを前にして食べるべきなのだ、とつくづく思った、うむ。

サンドイッチを食べ終わると、再び歩きはじめた。お腹が満たされたということもあり、二人はぶらぶらと歩いた。その結果、何度も二人の肩が触れたりした。

「紺野さん。歩くっていいね」と僕は、唐突に言った。

「それ今頃、気付いたの?」

「まあね」

「でも、気付いてくれてよかった」

「ん、気付いて?」

 紺野マキはオリンパス・ペンを構えると、シャッターを切った。

「言葉通りの意味よ」

「そっか」と僕は、よく考えもせずに相槌を打った。それから、こうも言った。「じゃあ、もしも気付かなかったら、どうするつもりだった?」

「気付くまで歩き続けるだけよ」

「タフな手段だね」

「あら、そ」

 僕は笑った。

 次の瞬間、二人の目の前を紋白蝶が横切って行った。不意を衝かれれば、紺野マキとてカメラを構えている間がないようだ。片や、僕は反射的に紋白蝶を追うことができた(なぜ追う?)。しかし、軽くあしらわれてしまった。それどころか、危うく木崎湖にダイブするところだった。決定的な瞬間になりそこねたが、彼女のフィルムにしかとおさめられた模様。

開けた場所で、再び休憩をとることにした。この場所からだと木崎湖の全体を見渡すことができた。また、木崎湖の中心に向けて桟橋が架けられてもいた。

紺野マキはフィルム交換を済ませると、水切りをする僕の様子を見ていた。水切りが成功すると、彼女は拍手してくれた。僕は彼女の拍手が欲しくて、おおいに水切りに励んだ。

「水野君、元気ね」

「じっとしていられなくってさ。きっと、今が楽しいから疲れを感じている暇がないのかも」

「そうなの。じゃあ、私も」

紺野マキはクローバーの花を一輪摘むと、それを耳に挿した。それから、クローバーの花を集めてブレスレットを編みはじめた。

二人は子供みたいに遊んだ末、桟橋の先端に並んで座り遠くを眺めた。

桟橋の先端は静かだった。さも大きな音でプリミティブな静けさが奏でられているかのようだった。そんな中、僕の白いシャツと、紺野マキの白いカットソーの生地には、湖底に映る水面波の模様が反射していた。

 ややあって、紺野マキは遠くを見据えたままゆっくり告げた。

「青ってね」

静かなうえ、遮るものが無いせいか、その声は柔らかく遠くまで響いた。

「青って?」と僕。

「特別なのよ」

「どんな風に?」

「自然界に無い色だからよ」

「じゃあ、あれとあれは?」と僕は、空と木崎湖を指差して言った。

「空気と水は無色透明でしょ? 太陽の光で青く見えるだけよ。青を纏っている生物だって、同じ理由でそう見えるだけよ。青は自然界に存在しているようで、存在していないのよ」

「ふーん、身近な色だと思っていたけど、実はそうじゃないのか」

「そうよ。身近にあるけど、手に取ることができない妖精めいた色なの」

「なるほど、それで特別ってわけ」と僕は言った。それから、頭に浮かんだ疑問を口にした(もちろん冗談のつもりだった)。「紺野さんは手に取ることができない自然界の青を、写真として手に取るため、シャッターを切っていたりするとか?」

沈黙が舞い降りた。それは言葉を選ぶときの沈黙ではなく、言葉を控えるときの沈黙だった。僕とてそれがわかるときもある。

「……そうよ。手に取るという欲望を満たすため、カメラのシャッターを切っているのよ、私。エゴイスティックなのかな」と紺野マキは言い、さみしく笑った。

「そんなことない」とか言えばいいのに、僕は言葉も返さず視線を紺野マキから木崎湖へ移した。

あの湖面には、紺野マキのオリンパス・ペンのレンズのように様々な景色が映し出されてきたのだろう。青空、夕焼け、雲、雨、雷、紅葉、雪、星座。また、多くの人々が木崎湖に向かって言葉を浮かべてきたのだろう。喜びや悲しみを帯びた言葉たちを。時には沈黙を。秘められた美しさが宿るのもうなずける。

そして僕は、おもむろに話をはじめた。大学生の頃の話、高校生の頃の話、中学生の頃の話。それらの時代、僕が何をして何を感じてきたのか、つとめて客観的に話をした。昨日、思春期の話は持ち出さないと腹を決めたにもかかわらず、そんなことをしてしまった。考えてもその理由はわからないだろう。信州の地図を広げて木崎湖が気になった理由がわからないのと同じように……。

僕が話し終えると、後に続くようにして紺野マキが話をはじめた。大学生の頃の話、高校生の頃の話、中学生の頃の話。それらの時代、何をして何を感じてきたのか、話をしてくれた。

僕は彼女の話を心にとどめた。丁寧に、壊さないように……。

わかっている。二人とも小学生の頃の話まで遡らなかったことくらい。それは記憶が曖昧だから? 客観性に欠けてしまうから? 実際にあった出来事なのか不安だから? いや、そんなんじゃなくて。そんなんじゃなくて……。もう考えまい。

 そして僕は、あおむけになり目を閉じた。

 湖畔の森の中から鈴の音が聞こえた。僕はハッと目を覚ました。どうやら、あおむけになったまま眠りこけてしまったようだ。

起き上がって辺りを見回すと、紺野マキは僕の隣にいた。彼女は麦わら帽子で顔を覆いあおむけになっていた。また、スニーカーを脱ぎ素足を木崎湖の青に浸してもいた。眠っているのだろうか? 耳に挿した花とフレアースカートが微風に揺れているだけで、体は動いていない。呼吸も穏やかだ。

だからこそ僕は、確かめることにしたのだ。最後に一度だけ。もう一度……。

「アスペルジュ」と僕は唱えた。すると、紺野マキの足元から波紋が生まれた。波紋は湖面に映る景色を歪ませた。が、それだけだった。疑問符は疑問符のままだった。僕は追憶に依存していることを再確認したにすぎなかった。

そして僕は、ローファーを脱ぐと、紺野マキと同じように木崎湖の青に素足を浸した。何とも言えない冷たさが気持ちよかった。ざらついた気分も消え失せた。だから、この夏の内にやりたいことを考えることにした。レッスンはもう止めだ。

金曜日 3

我々は木崎湖を一周し終えると、稲尾駅のベンチに深くもたれて電車の到着を待っていた。

眼下に広がる木崎湖は、もう青くはなかった。その代わりに、夕焼けで赤かった。夕焼けの専門家にこの情熱的な赤を見せてやりたい、とさえ思った。

さて、追憶の熱を冷ますにはどうしたものか。

実のところ僕は、そんなことを考えていた。しかし、意に反して追憶の熱は増す一方だった。ヒグラシの鳴き声、草木の香り、夕立の気配、日焼けした肌、耳に挿した花、クローバーの花のブレスレット。その全てが、幼い頃に見た景色と重なる。そうなれば、気を紛らわすため、丸い四角のことを考えるしかなかった。が、それにも限界はあった。だから、電車が駅に滑り込んで来た時には、ホッとした。

電車とバスを乗り継いで軽井沢に到着する頃には、もうすっかり夜のとばりが下りていた(どうりでお腹も減るわけだ)。

我々は駅の近くにあるイタリアンレストランで、夕食をとることにした。

食事もワインも美味しかった。いや、正直に話そう。美味しいはずなのに、僕の味覚はそう感じてくれなかった。

紺野マキもそうだったのか、フォークにパスタを絡めたり解いたりして、あさっての方向に目をやっていた。ホテルまでの道すがら、歩いている時もそんな風だった。

ホテルに戻ると、紺野マキはユーノス・ロードスターの前で立ち止まった。それから、そっと言った。

「もう少しだけアルコールが飲みたい」

「缶ビールなら、僕の部屋にあるよ」

「頂いてもいい?」

「もちろん」

部屋のドアを開けると、カーテンの隙間から月光が差し込んでいた。月光は青かった。木崎湖の青とは違いリリカルな色だった。また、その青も手に取ることができなかった。そう見えるだけで。

月光はテーブルの上にある本にも降り注いでいた。その本の中には、あの押し花が眠っている。

「ねえ、このまま」と紺野マキは言い、照明を点けようとした僕を止めた。

暗くて顔がよく見えなかったが、きっと木崎湖を目の当たりにした時のような顔をしていたに違いない(今にもオリンパス・ペンのシャッター音が聞こえそうだった)。

案の定、続けて紺野マキはこうも言った。

「青が消えるから」

「そうだね」と僕は、言葉を返した。それから、窓を開けて部屋の中に風と青を招き入れた。

「良い風。綺麗な青」

 段々、目が暗さに慣れてきた。僕は冷蔵庫から缶ビールを二本取り出した。

「ねえ、紺野さん。どうして青は綺麗な色だと、無条件に感じるのかな?」

「そうね。本能に根差した色だからじゃないかしら」

「というと?」

「私たちが生きていく為には、青が必要なのよ。青がなければ、私たちの体や思考は正常に機能しないわけ。だから、無条件に綺麗な色だと感じるのよ」

「案外、正解だったりして。その説」

そして僕は、缶ビールを紺野マキに手渡すと、ソファーに腰掛けるよう勧めた。

「ありがとう」

「どういたしまして」

「ねえ、昼間と同じね」

「ん?」

「昼間は木崎湖の青に素足を浸していたでしょ。今は青い月光を全身に浴びているからよ」

「あ、ほんとうだ。その内、二人とも体が青くなったりして」と僕は冗談を言い、缶ビールをすすった。

「もう青くなっているわ。ただ、そう見えないだけよ」

紺野マキは首を傾げて微笑むと、缶ビールを口に運んだ。その一連の動作が何を意味するのか気にも留めず、僕は笑い返した。

そして我々は、一日の終わりに訪れる静けさに体を預けながら、缶ビールをちびちびとやった。

その間、僕はほろりとした気分でカーテンがたゆたう様子を見ていた。すると小学生の頃、紺野マキが聴かせてくれたボサノヴァの曲(アントニオ・カルロス・ジョビン作曲の『フォトグラフィア』)を思い出した。旋律が頭の中に流れはじめる(青が体と思考に何らかの作用をもたらした、とでもいうのか?)。

次の瞬間だった。カーテンが大きく揺れ部屋の中に強い風が入り込んだ。風はテーブルの上にある本の頁をぱらぱらとめくった。本の頁をめくるのは人だけじゃないようだ。また、本の頁を止めるのもそれは同じ。

風が止むと、二人の視線は本の頁に挟まった押し花に注がれた。押し花は月光でさらに青く染まっていた。

「押し花」と紺野マキは、ポツリと言った。「水野君の?」

「そうだよ。意外かな?」

「正直、少し意外」

まあ、無理もない。

「もともとは、小学生の頃の同級生の家の庭に咲いていた花なんだ。それを摘んで押し花にしたってわけ」あえてそのことを紺野マキに告げた。頭の中で『フォトグラフィア』が流れている以上、仕方がなかった。

「それ、ほんと?」

「ほんとだよ」

小学生の頃の話に触れると、降り注ぐ青の密度が濃くなったような気がした。続けて僕は言った。

「六年生の夏、その同級生は引っ越して行ってしまったんだ。青い屋根の家と、花壇に咲いた花を残して。他にも……」

「きっと、その同級生は、そうしたくなかったはずよ」

「わかっている」と僕は声を落とした。「だから、残された花を萎れさせないために、水筒に水を入れていっては花壇に撒いたりしたんだ。けど、無駄だった。花は日に日に萎れていってしまった。全ての花が萎れてしまう前に、咲き残っていた花を一輪摘むことにしたんだ」

「……水野君。その押し花、手に取って見ても構わない?」

「構わないよ」

僕は本から押し花を取り出すと、紺野マキに手渡した。過去に紺野マキの家の庭に咲いていた花を、別の紺野マキに手渡すのは妙な気がした。

「これツルニチニチソウね。春から夏にかけて咲く花よ」

押し花を月光にかざして、紺野マキはそう言った。

「ツルニチニチソウって言うんだ」

「水野君、知らなかったの」

「恥ずかしながら」

「ちなみに花言葉は、幼馴染、優しい追憶っていうのよ」

「ほんと?」

「ええ」

僕は深く息を吸って吐いた(落ち着け。追憶に執着し過ぎるな)。

「花言葉って誰がどんな風に決めたのかな?」

「単なる言い伝えよ。それより、今日、水野君がフラワーショップで探していたのは、この花だったりして」

 僕は残りの缶ビールをかっくらった(落ち着くなんて無理だ。もうどうにでもなれ)。

「そうだよ」

「えっ」と紺野マキは言い、息を呑んだ。「あの時、邪魔しちゃったかな、私」

「ううん」

しばしの間、紺野マキは押し花に目を落としていた。

「ねえ、水野君。よかったら教えてくれるかな? その同級生とは、どんな関係だったのか」

 僕は頷いた。

「女の子なんだ。その子とは、単なる同級生とかいう間柄じゃなかった」

「というと?」

「学校以外の場で秘密の会話を積み重ねてきた間柄、とでもいうのかな。毎日、夕方になると彼女の家の庭先で話をするのが、僕らの日課だったんだ。ふとしたきっかけでその日課がはじまって、彼女の引っ越しを機にピリオドを迎えたのだけれど」

「秘密にしたのは、誰かにじゃまされたくなかったから?」

「それもあるし、秘密にしておけばその日課は永遠に失われない、と勘違いしていたのもある」

「水野君。その女の子のこと好きだった?」

「うん」

「……今でも?」

「今は会ってみないとわからない」そうとしか言えない。

「会いに行かないの?」

「会おうとして探したのだけど、探しあぐねて……」と僕は言い淀んだ(何をしゃあしゃあと抜かしているんだか。事実をありのまま告げろ)。「僕の方から彼女に会いに行く約束をしたにもかかわらず、それを守ることができなかったんだ。いや、それどころか、再会する可能性すら手放してしまったんだ」

「好きなのに可能性を手放したの?」と紺野マキは、けんもほろろに言った。

その問いに対して、僕は頷くしかなかった(救いの無いような言われようだ)。

「なぜ?」

僕は反射的に紺野マキの瞳に目をやった。青が滲んだ彼女の瞳は、美しかった。美しすぎて少し怖いくらいだった。だから、視線を逸らして宙を見た。

「あの夏……。僕らが離れ離れになってしまったあの夏。あんなにも胸が痛かったのに。夏が来る度、その痛みは蘇ったはずなのに。でも、年月が経つにつれて、その痛みは小さくなっていってしまった。それと同時に、彼女との思い出も色褪せてしまった。そして、単なる過去の一部になってしまった。僕には、それを止めることができなかった。いや、止めるどころか、自らそれを受け入れてしまったんだ。最低だ」

 苦笑いすら浮かばなかった。

「ねえ、水野君」

「ん?」

「私を見て」と紺野マキは、心のある声で言った。

その声はじんわりと胸に染み込んだ。僕は言われた通りそうした。

彼女は短い沈黙をはさむと言った。

「どんな思い出もいつかは必ず色褪せてしまう。だから、人は何かを残そうとするのかもしれない。大切な思い出が今であり続けるために。この押し花には、そんな想いが込められているはずよ。そうでしょ? 水野君」

 僕は紺野マキが差し出した押し花を手にした。

「そうだね。紺野さんの言うとおり、大切な思い出が今であり続けるためにこの押し花があるんだった」

「私の写真にだって、同じ意味が込められているのよ」

「そうなんだ」

「そうよ」

「ねえ、まだ間に合うかな? つまり、僕は彼女に会いに行くべきかな?」

「それは、水野君が考えて答えを導き出すことよ」

僕は押し花を本に挟むと言った。「そうだね。そうする」

「私たちは自由なのよ。いつでも、どこにだって行ける」と紺野マキは言い、ソファーから立ち上がった。それから、僕に背を向けて壁にもたれると、外の景色に目をやり「もう子供じゃないのよ。あの時と、今は違うもの」

 その言葉は、自分自身に言い聞かせているようにも思えた。

「あの時?」

「もう行くわ。明日の朝、早いから」

「そ、そうだね。わかった」

僕は彼女を見送るためにソファーから立ち上がった。が、紺野マキは壁にもたれたまま微動だにしなかった。かといって、何か言うわけでもなかった。ただただ、何かを待っているといった風だった。

沈黙が鳴り響く中、僕は彼女の後ろ姿から、そうする理由を探した。

だが、理由は見つからなかった。だったら彼女の背中に触れてみるのは、どうだろう? 触れて、体温を感じて、鼓動を感じて、理由を探す……。

しかし、僕は紺野マキの体に触れようとしなかった。小学六年生のあの夏と同じように。

ややあって、沈黙の音量が絞られると、紺野マキは目前の窓ガラスに息を吹きかける、という謎めいた行為をしてみせた。それから、曇った窓ガラスに『青のpressed flower』と書いて振り向き、笑ってみせた。素敵な笑顔だった。なのに、痛ましいほどに切実な目をしていた(どうして、そんな目をするのだろう? また明日会えるのに)。その目顔があの夏の紺野マキと重なった。胸が痛い。あの痛みだ。やっぱり、彼女は……。

「水野君って、あいかわらずね」

「えっ」

「なんでもないわ。別に意味なんて無いの。それじゃあ、おやすみなさい。また明日」

「ちょっと待って、紺野さん」

「さようなら」と紺野マキは取り合わずに言い、部屋から足早に立ち去った。

僕はドアを見つめていた。入り口でもあり、出口でもあるドアを。

しばらくそうしてから、窓ガラスに視線を移すと、紺野マキが書き残した文字は消えていた。

「青のpressed flower」と僕は口にした。何か大切なものを見落としている気がする。いったい何を見落としている、というのか? アスペルジュ、教えてよ。ねえ、アスペルジュ。彼女はあの紺野マキなのだろうか? それとも、そうじゃないのだろうか? 

土曜日

おや? 朝食を済ませてラウンジに行き、コーヒーをすすると、いつも以上にほろ苦く感じた。かといって角砂糖を入れてみても、何ら変わりはなかった。いや、余計にほろ苦さが際立つ始末だった。

ともあれ、僕は昨夜の紺野マキのあの目顔について考えることにした。が、ホテルのスタッフが声をかけてきた。

「おやすみのところ失礼いたします、水野様。高橋様から、お電話が入っております」

「どうもありがとう」と僕はそっと礼を言い、フロントに向かった。そして、フロント係から受話器を受け取ると「もしもし」

「グッドモーニング」と高橋のまぬけな声が聞こえてきた。その次は、大きなあくびが聞こえてきた。「水野、調子はどうだい?」

「それはこっちのセリフだと思うんだけど。で、昨夜は良く眠れたかい?」

「もちろんさ。おかげで、すこぶる元気だ」

「そっか」(じゃあ、あくびなんかするな)

 受話器からマッチの擦れる音と、タバコの焼ける音が聞こえた。

 僕は受話器を右手に持ち変えて軽く壁にもたれると、ロビーを行き交う人たちに視線を移した。そして、日傘を手に持ち、オリンパス・ペンをぶら下げて、ワンピースを着ているにもかかわらずランニングタイプのスニーカーを履き、スマートな身のこなしで歩く紺野マキの姿を探した。

しかし、彼女の姿は見当たらなかった(まあ、当然である)。とくれば、一刻も早く彼女と会って話がしたかったが、僕はその気持ちを抑えた。彼女にも色々と予定があるのだ。どのみち後で会える。昨夜の話の続きだってできる。だから、大丈夫。僕は自分にそう言い聞かせた。

「なあ、水野。話聞いているのか?」

 僕は溜息をつくと答えた。「聞いているよ」

「じゃあ、返事ぐらいしろよ」

「忘れていた」

「たまげた。返事するのを忘れてたってのかよ」

「少し違う。電話中だったのを忘れていた」

「おいおい、そっちかい」と高橋は言い、重ねて「まぬけな気分にさせるなよ。てか、このくだり、三日前と同じじゃないか」

「三日前とは違うさ」

「は、なにが?」

「それは秘密だ」

「なんだそれ。今日は、そういうのに付き合っている場合じゃないんだよ」

「だろうな」

「で、例のブツは大丈夫なんだろうな」

「大丈夫さ、問題ない」

「そっか」

「ああ」

「じゃあ、後で」

「わかった。後で」

 そして我々は、電話を終えた。さて、準備せねば。

ホテルのスタッフから洗車道具を拝借し、これでもかってくらい念入りにユーノス・ロードスターを洗った(自分で言うのもなんだが、仕上がりは上々だった。エデンの園の入り口にだって堂々と飾れる)。

次にシャワーを浴びてから、ワイシャツにアイロンをかけスーツに着替えた。久々に着るスーツは息苦しくて動きづらかった。まれにオフィス街でビジネスマンが全力疾走しているのを見かけるが、ただごとではない事態が進行中なのだろう、と改めて思った(いったい何をしでかしたのか、軽井沢の空気を吸っていると想像もつかない)。

出掛ける準備が整うと、ユーノス・ロードスターを走らせフラワーショップに向かった。

フラワーショップに到着すると、店員に花束を受け取りに来たことを告げた。すると、大きなショーケースの中から、花束を五つ持って来てくれた。ナチュラルな色合いと、エレガントな香りが印象的だった。思わずホーと声が出た。

とどこおりなく花束を受け取りユーノス・ロードスターに乗り込むと、昨日、紺野マキと打ち合わせていた店員が、僕に気付き声をかけてきた。

「彼女さんによろしくお伝えください。それにしても、お花のことがよくわかってらっしゃる彼女さんですね。打ち合わせた通りに作ってみて、その出来映えにハッとさせられたんですよ、私。是非とも軽井沢にお越しの際は、二人でお寄りくださいね」

空前にして絶後の勘違いが嬉しくて、僕は「ちゃんと伝えておきます。どうもありがとう」と礼を言ってしまった(すまない、紺野さん)。

そして僕は、教会に向かった。

その道すがら、ついアクセルを深く踏み込んでいることに気が付いた。一刻も早く伝言を届けたかったのだ。

教会に到着すると、目立たない場所に車を停めて中に入った。すると、うろうろと歩き回っているタキシード姿の高橋が目に留まった(まるで初デートの待ち合わせだ)。普段は堂々としているのだが、そのギャップに心底笑えた。

「水野、妙に楽しそうだな」

「その絵に描いた様なタキシード、よく似合っているよ。さすがだな、高橋」

「他人事だと思ってからかっているんだろ」

「もちろんさ。今日はそのために来たんだから」

「後で覚えていろよ」

「直ぐに忘れてやる」

 そして我々は、例の計画の打ち合わせを内々に済ませると、学生時代の友人らと話し込んでしまい、紺野マキを探すのを後回しにしてしまった。けれども、時間は十二分にある。いくらでも話すチャンスだってある。問題なかろう、うむ。

そうこうしていると、挙式のはじまりを告げる鐘が鳴った。

挙式はおごそかに、つつがなく進行していった。

僕の座っている位置からだと、紺野マキの姿が見えなかった。しかし、彼女の気配は感じることができた。その気配から察するに、彼女は青のワンピースを纏い、オリンパス・ペンを手に持ち、花をあしらった何らかのアクセサリーを身に着けている模様。そんなことを考えながら、満ち足りた気分に浸っていた。

後で友人から言われたが、挙式の最中、僕はにんまりと笑いっぱなしだったらしい。

やがて挙式は終盤を迎えた。

僕はタイミングを見計らい例の計画の準備に取りかかった。といっても、ユーノス・ロードスターに空き缶(無数の空き缶を紐にくくり付けたお決まりの装置)と、花束と、カセットテープ(ミニー・リパートンの「ラヴィン・ユー」)をセットするだけだった。

それから、新郎新婦の様子を窺ってみると、フラワーシャワーの真っ最中だった。僕は大きく手を振って高橋に準備が整った合図を送った。すかさず了解した、というサイン(鼻の下を擦るまぬけなサイン)が彼から返ってきた。

ややあって、高橋はブーケトスのどさくさに紛れて、僕とブライダルカーと化したユーノス・ロードスターのところにやって来た。万事順調である。

「水野、サンキュー」

高橋は息をはずませて、車に滑り込んだ。

「どういたしまして」

「こりゃたまげた。華やかじゃないか」と高橋は花束の感想を言い、ステアリングを握った。左手の薬指にはめられた指輪が、まばゆい光を放っていた。

「ほら、行けよ」僕はタイヤを蹴飛ばした。「さらってこい」

「ああ、言われなくっても、派手にさらってくるさ」

言ってくれるね。

そして高橋は、カーオーディオの再生ボタンを押すと、ユーノス・ロードスターを走らせて新婦をさらいに行った。

次の瞬間、新婦は驚いていた(予想だにしなかったのだろう)。それから、状況が飲み込めると、ドアを開けて滑り込み、花束をかき分けて新郎に抱き付いていた。もう二度と離すものか、といった風に。

言うまでもないが、辺りは祝福に包まれていた。ご機嫌な事態である。それにもかかわらず、僕はこのシチュエーションに違和感を覚えた。が、それを思索するよりも紺野マキを探すことを優先させた。青いワンピースを纏った紺野マキを……。

しかし、彼女の姿は見当たらなかった。別の段取りがあって、一足先に披露宴会場のレストランに向かったのだろうか。今日のことをきちんと確認しておけばよかった、と後悔した。

新郎新婦はユーノス・ロードスターで披露宴会場となるレストランに向かうことになった(高橋は最後まで抵抗していたが、空き缶は外させてもらった)。その道すがら、タキシードとウエディングドレスというおめでたいいでたちで、カフェに立ち寄りコーヒーブレイクなんぞをする、と高橋は言っていたが、もはや冗談に聞こえなかった。今日のあいつならやりかねない。のぼせていやがる。

挙式の参列者たちは、新郎新婦を見送るとめいめいタクシーに乗り合わせてレストランに向かった。

北欧カントリー調のレストランに、何故かボヘミアン風の飾り付けがなされてあった。

「今朝、みんなで手分けして準備したのよ」

レストラン内を見回していると、新婦の友人とおぼしき女性(ボヘミアン風ワンレングスが印象的。つまり、彼女がこの飾り付けのキーマンか)が僕に話しかけてきた。

「へぇ、そりゃ大変だったね。ちなみに花も君たちが準備したの?」僕はレストラン内に飾り付けてある花を指さしてそう言った。

「ううん。違うわよ。生花だけは業者に頼んだのよ。だって、準備だの後片付けだの大変じゃない」と彼女は、あっさり答えた。それから、腕を組むと「そんなことより、男の人たちってこういうとき、タバコを吸って下品な話をしているけど、少しは手伝おうとか思わないのかしら。まだ少し準備があるってのに」

 彼女は僕の友人らのことを言っていた(確かに下品な話をのらりくらりとしていた。大いにくさった連中である)。

受付の準備が整うと、次から次へと参加者(披露宴からの参加者もいる)が会場に流れ込んできた。店内はアッという間に人でひしめき合った。色とりどりのドレスがひらひらと舞い、めいめいシャンパンを片手におしゃべりに打ち興じている。エントロピーの度合いは増す一方である。

そんな中、僕はシャンパングラスを二つ手に持ち、あちこち歩き回っていた。

しかし、紺野マキの姿は、どこにも見当たらなかった。新婦側の友人たちの様子をみても、とりわけ何か言っている風でもなかった。じゃあ、教会で感じたあの気配はいったい……。

しばらくすると、車のクラクションが外から聞こえてきた。と同時に、ユーノス・ロードスターが駐車場に滑り込んで来た。

皆、新郎新婦を出迎えるため、外に出ると、目一杯、二人を祝福した。

僕は温くなったシャンパンを手に持ったまま、静かにその様子を見守っていた。

イカした音楽を皮切りに披露宴がはじまった。

僕は何とも言えない気分だったが、適当に宴を楽しんだ。

「ねン、名前は?」

 向かいの席の女性が、僕に話しかけてきた。チャームポイントは蠱惑的な唇と、豊満な胸で、三度の飯より札束が大好き、と顔に書いてあった。

「水野ヒカル」と僕は、簡単に答えた(不思議と自分の名前に聞こえなかった)。

「あたし、宮島杏子っていうの。春果の同級生よ。そんでもって、あの手の独身」と言い、髪をかき上げて、ウインクして、にんまり笑った。「そういえば、春果と、春果の旦那から、あなたのこと聞いたことあるわ」

「へえ……」(あの手の独身ってなんだ? まいっか)。

「ねン、目一杯お洒落した女の子が話しかけているのよ。随分、ご挨拶じゃない。そのリアクション」

「あ、ごめん。ちょっと考え事をしていたものだから」

「しょうがないわね。もう」

「で、二人は僕についてどんなことを言っていたの?」と僕は、笑顔で尋ねた。

「そうね。とってもユニークな仕事をしている、とか言っていたわよ」

「単なる隙間産業だよ」

「後、彼女は作らない主義だとか」

「それ間違っているから」

「後、緑色のユーノス・ロードスターを乗り回して、ガールハントしているとか」

「ガールハント以外は、正解」

「じゃあ、聞いている話と全然違うわ。意外にノーマルなのね」

 肩を落とした宮島杏子に、僕はワインを振る舞ってやった。それが嬉しかったのか、彼女ははずんだ声で言った。

「ねン、水野君。あたしについて何か質問は?」

「質問?」

「ええ、そうよ。至極個人的な質問でも構わないわよ」と宮島杏子は言い、ワインを口にして舌なめずりした。「今日は特別な気分だから、なんでも話してあげるわ」

「あ、そうだ。宮島さん、新婦の同級生って言ったよね?」

再び宮島杏子は肩を落とした(アダルトな質問でもすると思ったのか)。続けて僕はこうも言った。

「で、いつから同級生なの?」

「……中学からよ。高校まで一緒だったけど、大学は別なの。春果は文系で、私は理系ってわけ」

「あのさ」

「なあに?」

 僕は一呼吸置くと言った。

「宮島さん。休日は何をしているの?」

本当は紺野マキのことを尋ねようとしたのだが止した。

「話がかみ合っていないような気がするんだけど」

「そっかなぁ。おっと、美味そうな料理だこと。宮島さんも冷めないうちに頂こう」と僕は言い、フォークとナイフを手に持ち首をすくめてみせた。

「ねン、もっとかみ合っていないわよ。水野君」

 宮島杏子は頬を膨らませワイングラスのヘリを人差し指で撫ではじめた。たったそれだけの仕草が、想像力をあらぬ方向へと導く。宮島杏子、恐れ入る。

 やがてスピーチタイム(思い出のエピソード、恋愛相談、怪談、猥談、etc)がはじまった。予期した通り宮島杏子は、手をあげてスピーチに名乗り出た。

高校時代、新婦と同じバドミントン部に所属していたらしく、夏合宿の夜に催したパイ投げ肝試しなるレクリエーションでのハプニングを、面白おかしく披露していた。狼と化した男共、いや、まぬけな羊と化した男共は、食い入るような目つきで宮島杏子の話、いや、胸を見ていた。

僕は彼女のスピーチが終わると同時に席を立ち、ボスリントンのメガネをかけた店員に声をかけることにした(妹と同じデザインのメガネだったから話しかけやすかったのだ。それに、雰囲気も少し似ている)。

「あの」

「はい。どうされましたか?」

「今日って、当日、キャンセルとかあったのかな?」

「キャンセルは無かったと思いますよ」と店員は、こともなげに答えた。「料理も席も余っていませんから」

「そっか……」

僕の様子から何かを察したようで、店員は小首を傾げていた。が、宮島京子に群がる男共を見て吹き出すと「私、こういう披露宴、素敵だと思います。だから、とってもやりがいがあります。お客様も今日は、楽しんでくださいね」

「そうだね」としか言えなかった。「君も仕事頑張って」

「はい」

 彼女の性格は、僕の妹に似ていなかった。そのことに心底ホッとした。

それから、僕は彼女の言うように披露宴を楽しんだ。そもそも新郎新婦を祝福するために、この軽井沢にやって来たのだ。それが目的だったはず。めでたし、めでたしじゃないか。

土曜日 2

ビールをかっくらうと、夜風にあたるためレストランの外に出た。そして、ジャケットを脱いでネクタイを緩めると、ユーノス・ロードスターにもたれた。さて、次は何をすればいいんだっけ、と考えるに、そっか、夏の星座か。

それから、僕はオリンパス・ペンを構える真似をして、夏の夜空に目をやった。

白鳥座、こと座、ヘルクレス座、いるか座、わし座、へび座、いて座、さそり座。一昨日、覚えたばかりなのに、どの星座も見つけることができなかった。その代わりに、見つけてしまった。いや、気付いてしまった、というべきか。教会で感じていた紺野マキとおぼしき気配の正体に。それは空の青だということに(何故、青と彼女の気配を勘違いしたのだろう?)。なんだか一発お見舞いされた気分だよ、紺野さん。どっちの? 

その時だった。後ろから声がした。

「どうした? さえない顔をして」

そう声をかけてきたのは、高橋だった。彼が近づいてきたことに、僕は全く気付かなかった。続けて高橋は言った。

「隣いいか?」

 返事の代わりに僕は、あっさりと首をすくめてみせた。

高橋も同じように首をすくめると、ユーノス・ロードスターにもたれた。「散々バカにしたけど、撤回するよ。良い車だな」

「今頃、気付いたのか」ため息まじりに僕。

「ガハハ、そうだな。今頃、気付いた」と高橋は答えた。それから、大きなあくびをして「さすがに、少し疲れたよ」

「そっか」(かれこれ三次会だもの。無理もない。全て同じ会場というのがせめてもの救いか)

「なあ、水野」

「ん?」

「お前こういう場が苦手なのに、長い時間つきあわせて悪いな」

「今日は好きでいるんだよ。なんたって、高橋優二の結婚式だからな」

「照れるな」

「そういえば、面と向かって伝えてなかったな。今日はおめでとう」

「もうよせって」と高橋は控えめに言った。「あ、そうだ。花束のサプライズ、春果がすごく喜んでいたよ。サンキュー」

「ん、花束は春果が友人にリクエストしたんじゃないのか?」

「はぁ? 冗談はよせって」

「冗談? なに言っているんだ。新婦の友人で紺野マキ……」と声が小さくなり、僕は息を呑んだ。と同時に、軽井沢中の電灯が一瞬消えたような感覚に見舞われた。

どうして、サプライズの時に気付かなかったのだろう。いや、どうして彼女と出会った時に気付かなかったのだろう。そもそも新婦へのサプライズに、新婦の友人が絡んでいるわけがなかろう(高橋と僕が企てたサプライズであり、二人以外に知らないはずだ)。まったく、何をしでかしているんだか。今頃、伏線を回収してどうする。

「どうした?」と高橋は、心配そうに言った。

「ん、何でもないさ。ハハ」

「そっか」

「ああ」

 ややあって、レストランのドアが開くと、宮島杏子の大きな声が聞こえた。

「ねン、いたわよ。春果」

「どこどこ? あ、ほんとだ」

宮島杏子と新婦の春果が、レストランの中からひらひらと舞って出てきた。

「優二、探したのよ。ちっとも戻ってこないんだから」春果は高橋の体を小突くとそう言った。「どうせ水野君と、来ている女子の話に花を咲かせていたんでしょ?」

「えっ、そうなの! てことは、あたしの事も? どんな話?」と宮島杏子はせっついた。

「何を話していたかは、男同士の秘密だ」と高橋は言い、話の腰を折った。

「今日、結婚したばっかりで、もう秘密とか作っちゃうわけ?」めげずに春果は、高橋に迫った。が、ふと思い出したように「あ、そうだ。水野君にお礼言わなくちゃ。素敵な花束、ありがとう。とっても嬉しかったよ」

「へえ、あのハイセンスな花束を仕込んだのは、水野君だったの。良い意味で意外」と宮島杏子は言った。

僕は何も言わなかった。いや、何も言えなかったのだ(適当にその場をとりつくろうことすらできなかった)。

そんな僕の様子から何かを察したらしく、高橋は手を叩いて空気を変えた。

「さあ、お嬢様方。この話の続きは中に入ってからだ」

「ねン、あたしたちも星空の下で、秘密の会話に参加させてよ」と宮島杏子は、甘えた声で言った。それから、ワイングラスを傾けると「やっぱり、何か隠しているわよ。春果」。

「うん。すごく怪しいわね」

「ほらほら、中に入った入った。てか、宮島、店の外にグラス持ち出すなよ。これ以上、デリカシー欠いてどうするんだよ」

高橋は二人の女の子の背中を押すと、店内に促した。

渋々、二人はそれに従った。

「悪いな、高橋」

「なに、お安い御用さ」と高橋は、言葉通りそう言った。「にしても今日は、一服する暇もありゃしないな。ガハハ」

「大変だな」

「なあ、水野」

「ん?」

 高橋は短い沈黙を挟むと言った。

「僕に出来ることがあるなら、遠慮なく言ってくれ。いつでも手を貸すよ。お前には大きな借りがあるからな」とうがったことを言った。「後、これは経験則だが、落ち込んだ時は派手にスキップするといいぞ。無条件に前向きになれる」

「そっか、気が向いたら試してみるよ」

高橋はタバコとマッチを放り投げた。

 僕はそれをキャッチした。

「代わりに吸ってくれ」

「わかった」

「ベリー・グッドラック」

そう締めくくると、高橋はレストランに引き返して行った。そして、ドアを開けて中に入った。その瞬間、大勢の人の話し声が漏れ出た(さっきまでその中にいたなんて信じられなかった)。白馬駅へ向かう途中、バスのドアが開く度に耳にしたセミの鳴き声を思い出した。昨日のことなのに、どこか懐かしかった。

僕はタバコを一本取り出して口にくわえた。しかし、マッチを擦る気にはなれなかった。だから、ユーノス・ロードスターの運転席に座り、微かに残る花の香りで肺を満たした。それから、車を走らせて気分転換しようと試みたが、飲酒していることに気付き止した。

それにしても、どうして彼女は嘘をついたのだろう? そう宙に向かって問いかけてみても、虚しいだけだった。

そして僕は、ステアリングから手を放すと、だらしなく垂らした。すると左手の指先に何かが触れた。その何かは、助手席に落ちていた花弁だった。花弁はひんやりとしていた。だから、そっと握りしめて温めることにした。

 花弁を温めていると、小学生の頃、紺野マキと親密になったきっかけを思い出した。それは放課後、男女のグループに分かれて糸電話で遊んでいた時のことだった。

「もしもし、聞こえる?」

 紙コップの受話器から澄んだ声が聞こえた。

「聞こえるよ、紺野さん」

「あのね、水野君。前々から伝えたいことがあったの」と紺野マキは、声を落として言った。まるで内緒話をするみたいに。

「前々から?」彼女につられて僕の声も小さくなった。

「そうよ。ねえ、水野君。いつも夕方になると散歩しているでしょ?」

「まあね。歩くことが好きだから」

「それ知っている。いつも楽しそうに歩いているのを見かけるもの」

「いつも?」

「ええ、いつもよ。どうしてって、水野君の散歩のコースに、私の家の前の道が含まれているからよ」

そう言われて僕は、褒められたわけでもないのに耳が熱くなった。

「そうなの。知らなかった」

「あのね、水野君。気が向いたらでいいんだけど、今度、散歩のついでに私の家の庭を見てほしいの」

「庭には何があるの?」

「見たらわかるわ」

「じゃあ、今日の夕方、見に行くよ」

「ほんと!」と紺野マキは、大きな声で言った(その声が同級生に聞こえてしまわないかドギマギした)。

「うん、約束してもいいよ」と僕は、小さな声で言った。

「じゃあ、約束して」

 その日の夕方、僕は紺野マキの家の庭に咲く花たちを目の当たりにした。そして、彼女に「まるで絵みたいだ」と告げた。「とても美味しそう」とも(とても良い香り、と告げようとしたのだが、うっかり間違えたのだ)。

「水野君。それ可笑しい」

「そっかな」僕は鼻の下を擦って気恥ずかしさをごまかした。

「だって、食べ物に喩えられたのは、はじめてだもの」

 その時、タイミング良くお腹が鳴った(この恥知らずめ)。

「ねえ、お腹がすいたからって、お花を食べちゃ嫌よ」と紺野マキは、警戒の色を強めて言った。

「今日のところは、我慢する」と僕は、ウイットに富んでもいない冗談を披露した。なのに、紺野マキは笑ってくれた。言うまでもないが、嬉しかった。続けて僕は言った。

「この花は全部、紺野さんが育てたの?」

紺野マキは回れ右をしてオーケストラの指揮者よろしく花たちに視線を注いだ。彼女の左手首には、クローバーの花で編んだブレスレットがあり、耳の上には白い花が挿してあった。その様子が絵本に出てくる妖精みたいだった。

「全部じゃないけど、ほとんどそうね」

「へえ、すごいね」

「さっき、水野君、まるで絵みたいだって言っていたけど、かつて文字は絵だったのよ。それって、信じられる?」

 あの時、紺野マキはそう言ったのだ。今、はっきりと思い出した。そして僕は、あの時、こう言ったのだ。

「そんなの妖精めいている」

「やっぱり、水野君って可笑しい」と紺野マキは言い、目を伏せてクローバーの花で編んだブレスレットを撫でた。「どうしてだろう。水野君なら、こういうこと話せる。不思議……」

胸がじーんとした。

「あ、そろそろアスペルジュを迎えに行かなくちゃ」

「アスペルジュって?」

「僕の家の猫の名前だよ」

「ねえ、今度、連れてきて。アスペルジュ」

「いいよ。じゃあ明日」

「うん。また明日」

あの頃の僕たちには、明日があった。瑞々しい明日が……。

いつしか花弁を両手で包み込んでいた。隙間からエッセンスがこぼれてしまわないように。これ以上、思い出が色褪せてしまわないように。

月光に体を預けながら僕は、過ぎ行く時間を前にそうしていた。すると、降り注ぐ青が体と思考に何らかの作用をもたらしたのか、無意識の領域から言葉が溢れ出てきた。それは、この二日間、紺野マキと交わした言葉たちだった。

「一昨日からこのホテルに宿泊しているの。そして、その目的は、偶然にもあなたと同じなのよ」

「やっぱり止すわ、秘密よ。水野君ならその理由、わかるでしょ」

「あ、うん。言ったかもしれないわね。アスペルジュの入ったサンドイッチが美味しくて、思わず口からこぼれたのね」

「だめ、言っちゃだめ。言わないで、お願いだから」

「私も夜空を見上げてそうしていたのかも」

「プロセスを経ずに結果を得るってどう思う?」

「真のファクトは、妖精めいているのね」

「でも、気付いてくれてよかった」

「気付くまで歩き続けるだけよ」

「青ってね。特別なのよ」

「そうね。本能に根差した色だからじゃないかしら」

「もう青くなっているわ。ただ、そう見えないだけよ」

「これツルニチニチソウね。春から夏にかけて咲く花よ」

「ちなみに花言葉は、幼馴染、優しい追憶っていうのよ」

「水野君。その女の子のこと好きだった?」

「好きなのに可能性を手放したの?」

「私を見て」

「どんな思い出もいつかは必ず色褪せてしまう。だから、人は何かを残そうとするのかもしれない。大切な思い出が今であり続けるために。この押し花には、そんな想いが込められているはずよ。そうでしょ? 水野君」

僕の無意識はとっくに気付いていたのだ。いや、僕の意識だって気付いていたはずだ。彼女があの紺野マキだということに。

それにもかかわらず僕は、偶然がもたらした再会、という図式を受け入れようとはしなかった。というのも、偶然は偶然であって必然じゃないからだ。自ら掴んだわけじゃなく、与えられたものだからだ。そんな不確かな巡り合わせを、僕は認めようとはしなかった。それは大人になり、社会で効率的、理性的に生活するため、心の形を変化させた結果なのだろう。今頃、それに気付くなんて……。

両手で包み込んでいた花弁を外気に触れさせた。すると花弁は一瞬で冷たくなった。温めるのには時間を費やしたのに、その反対は時間を必要としなかった。

 今、彼女はどこにいるのだろう? どこで何をしているのだろう? 何を見て何を感じているのだろう? 夜空に瞬く星たちが滲んで見えら。これじゃあ星座もへったくれもありやしない。どうしてくれる。かくして二度目のピリオド、というわけか。さて、この花弁を押し花に……。

それでいいのか? 

だって仕方ないじゃないか。今からホテルに行ったところで、彼女はもういないはず。昨夜のあの目顔が、それを物語っていたんだから。

じゃあ、彼女と過ごした二日間はどうなる? この再会はどうなる? どう折り合いをつける? また、逃げる気か?『青のpressed flower』の続きには、二人の時間、二人の言葉が新たに加わったじゃないか? 偶然に怯えるな。現実に怯えるな。今の気持ちに怯えるな。しっかりしろ、水野ヒカル!

誰かに名前を呼ばれた気がした。間もなく、可能性を手放した時に自ら閉ざしたとある記憶が体を貫いた。

そうだ! あの夏、引っ越しの日の朝、僕は彼女を連れ出して散歩に行ったじゃないか。それが彼女と会った本当の最後だったじゃないか。その時、二人で確認し合ったじゃなか。同じ気持ち、同じ青のままだと確かめるための言葉を。その言葉がある限り、この物語、『青のpressed flower』の空白は一瞬で埋まるはずだ。

そう気付いたと同時に、どこからともなく鈴の音が聞こえた。その音に導かれるようにして、何かが目に留まった。その何かは、ユーノス・ロードスターの助手席側のワイパーの端に挟まっていた。それを手にすると、写真だった。木崎湖の写真。それともう一つ、便箋が挟まっていた。しかし、その便箋には何も書かれていなかった。白紙だ。

今朝、そんなところには、何もなかったはず。高橋が運転している時もなかったはず。じゃあ、披露宴中の出来事。でもって、こんなことをするのは、一人しかいない。紺野マキ、彼女だ! そして、彼女ならこの白紙の便箋に……。

僕はマッチを擦ると、白紙の便箋を慎重にあぶりはじめた。

果物の香りがほのかに漂いはじめると、便箋に文字が浮かび上がってきた。そこには、こうしたためてあった。

〈一九時四八分発 L特急あさま〉

僕は軽井沢駅に向けて走り出した。

青のpressed flower 2

 雨上がりの湿った空気の中だった。紺野マキから引っ越しの話を切り出されたのは。

その瞬間、何とも言えない感覚が僕の全身を覆った。

「引っ越しって、まさか、あの引っ越し?」

「……そうよ」

「冗談だよね?」

 紺野マキは俯き、頭を左右に振った。

「そんなのって」

「ごめんね」

「別に紺野さんのせいじゃないし、あやまらないでよ」

「あのね、水野君……」

そう言い淀んだ彼女の声は、震えていた。

アスペルジュが何かを察したようで、紺野マキの足にすり寄り喉を鳴らしていた。

「ありがとう、もう平気よ」と紺野マキは言い、アスペルジュを撫でた。「水野君、残された時間を大切に過ごしましょう。ウエットに過ごすなんて嫌だから」

「そんなの無理だよ。だって……」

「わかって、おねがい。そんな顔しないで」

紺野マキは表情を工夫して笑顔を装っていた。

その顔を見るのが辛く、僕は目を背けようとした。が、それよりも先に彼女は、耳に馴染んだ穏やかな声で言った。「私を見て」と。

僕はそうした。そして、彼女の瞳に吸い込まれた。

「ねえ、何が見える?」

 僕は一呼吸置くと答えた。

「紺野さんが見えるよ」

「今、水野君が見ているのは、過去や未来の私じゃなくて、手で触れることができて話すことができる、今の私よ。そして、それが私たちのいる場所よ。ねえ、何が言いたいのかっていうと、生の重心は今にあるってことなのよ。過去でも、未来でもなく、今なの。だから、二人の今を大切にしましょう。残された今を」と紺野マキは言い、白紙の便箋を差し出した。

 僕は頷くと白紙の便箋を受け取った。

 家に帰り白紙の便箋をあぶってみると、果物の香りと共に文字が浮かび上がってきた。物語めいたその言葉は、じんわりと胸に染み込んだ。

翌日、僕は同じ方法で、同じ言葉を紺野マキに贈った。

紺野マキは白紙の便箋を受け取ると、微笑んでくれた。肩を震わせて、大粒の涙を流して、日が沈むまで、ずっと、ずっと、ずっと……。

文字を絵として捉えるということは、言語体系の外側に触れる、ということなのかもしれない。そのためには、言葉が言葉以上の何かになる必要があるのだ。言葉の限界に達する程の意味が宿る必要があるのだ。

そう気付いたというのに僕は、膝をつき電話ボックスにもたれて、木崎湖の写真に目を落としていた。体力が限界に達してしまったのだ。一刻も早く軽井沢駅に向かわなくてはならないのに。なんてざまだ。こんなことしている場合じゃないだろ。彼女に届けたい言葉があるのに。想いがあるのに。今、走らなくていつ走る。立て。走るんだ。加速するんだ。まだ終わっちゃいない。終わらせられない。可能性を手放すものか!

 僕は地面を叩いて腹を決めると、全身を総動員させ再び走り出した。

一九時四八分間近 

軽井沢駅の上りのホームには、特急あさまの到着を待つ観光客たちがいた。どうにか間に合ったようだ。いや、そうとも言えないのかもしれない。踏切が鳴っているではないか。

駅のロータリーから改札口を抜けて、紺野マキを探して回る時間も体力も無かった。だから、人目もはばからず叫ぶことにした。

「紺野さん。水野です。紺野さん」

観光客たちはホームに滑り込んで来た特急あさまではなく、僕を見た。そんなのどうだっていい。どうだって。構うものか。だから、もっと大きな声で叫ぶんだ。

「紺野さん。水野です。こ……」

息が続かなかった。呼吸が乱れすぎている。肺がどうにかなりそうだ。

「紺野マキさん」

 こんなものか、もっと大きな声が出るはずだ。

「マキさん、マキ……」

くそ、息が。その前に、あの言葉を叫べ。

「アスペルジュ!」

 ……。

もう限界だった。手を膝につき、しゃがみ込んでしまうのを耐える始末だった。タガが外れたみたいに体から汗が噴き出してきやがる。心臓がただごとではないと騒ぎ立てていやがる。たまらなく水が飲みたい。そんな場合じゃないだろ。特急あさまが出発してしまうではないか。

再び顔を上げて叫ぼうとした時だった。テンポの速い足音が聞こえてきた。それは聞き覚えのあるスニーカーの音だった。

「水野君」

そう声が聞こえたと同時に、僕の体に衝撃が走った。僕はその衝撃をしっかりと受け止めた。すると、オリンパス・ペンが地面に落ちてレンズが割れた。続けて木崎湖の写真、便箋、花弁が地面に落ちた。

「ずっと、聞こえていたよ。ずっと、ずっと、ずっと……」

直ぐそばで、彼女の髪の香りがした。不思議と子供の頃に嗅いだあの庭の香りもした。

「紺野さん、ごめんね。気付くのが遅くて。いや、そんなんじゃなくて、そうじゃなくて、何もわかってあげられなくて、ずっと迎えに行けなくて、ごめんね」と僕は声をあげた。

「もういいの」と紺野マキは言い、首を大きく左右に振った。「私の方こそ、色々と嘘をついてごめんなさい。あまりにもこの再会が突然で、どうしても偶然からはじめられなくて、必然的なものを求めてしまったの。だから、これは全て私のわがままなの。ごめんなさい」

彼女の声の振動を、体で感じることができた。というのも、二人の間の空白が埋まっているからだ。青のワンピースを纏った紺野マキを、強く抱きしめているからだ。この手で、ようやく。だから……。

「あのね、紺野さん。伝えたいことがあるんだ」と僕は後を引き取って、何よりも先に伝えたいことを告げることにした。

「伝えたいことって?」

「今の紺野さんが好きだ。今、僕の目の前にいる紺野マキが」と僕は、子供の頃、果汁でしたためた文字を声に出して告げた。

 一瞬、紺野マキの呼吸が止まった(無理もない)。それから、不安げな表情を浮かべると言った。

「過去の私じゃなくて?」

 どういうわけか僕は、笑った。まあ、どうかしているのだろう。

「紺野さん。生の重心は今でしょ。過去じゃなくて、未来じゃなくて、今でしょ。今があるから過去だってあるし、これからだってある。大切なのは、今、この瞬間でしょ」

 紺野マキの表情は、打って変わって和らいだ。それから、目を細めて僕の胸に顔を埋めた。

「私も同じ。今の水野君が好き。今、私の目の前にいる水野ヒカル君が」

特別な人が現れて、この夏が特別になった。この出会いは、季節がくれたものなのだ。たった一度しか訪れない季節が。そうだったな、アスペルジュ。

「紺野さん。二人で歩こう」

「うん」

「サンドイッチと、オリンパス・ペンを持って」

「うん」

「スニーカーを履いて」

「うん」

「あの夏の続きを」

「うん」

青のpressed flower 3

あの夏、引っ越しの日の朝、僕と、紺野マキと、アスペルジュは街の外れにある並木道まで散歩に出かけた。そして、光の渦と化した木漏れ日の中をのんびりと歩いていた。

「ねえ、水野君。私たちの名前から青を連想しない?」

紺野マキは嬉しそうにそう言った。それは、ようやく二人(と一匹)で散歩に出かけられたからなのだろう(道すがら、ラジオ体操帰りとおぼしきクラスメイトに会っても、気にしなかった。てか、もうそんなの目に入ってこなかった)。

「青って、あの青?」と僕は、空を指差して言った。

「そうよ」と紺野マキは、きっぱり答えた。「空だけじゃないわ。湖の水だって青いわよ。それはね、光が降り注ぐから青く見えるのよ。まるで水野君の名前そのものだと思わない? 水野光、ほらね。それに、私だって苗字に紺色の紺という文字が含まれているでしょ。だから二人は、同じ青なの」

「本当だ。すごい発見」

「でしょ」と誇らしげに紺野マキ。「実はね、随分前から気付いていたのよ、それ」

「随分前って、いつ頃?」

紺野マキはあっさり首をすくめると答えた。

「もう忘れたわ」

 僕は大声で笑った。何だか可笑しくてたまらなかったのだ。

「じゃあ、二人が出会ったきっかけは、季節がくれたんだ。だってほら、紺野さんの名前、真季のキは、季節っていう字でしょ」

「それ可笑しい。でも、そう言ってもらえると、すごく嬉しい」と紺野真季は言い、カラフルに笑った。「それじゃあ、アスペルジュは何?」

 僕はアスペルジュを抱き上げると顔を見た。アスペルジュはいつも以上に迷惑そうな顔をしていた(そんな顔するな。一人だけミスマッチだぞ)。

「あ、そうだ! 合言葉にしよう」

「合言葉?」

「うん。二人が再会した時に、今と同じ気持ち、今と同じ青のままだと確かめるための合言葉に。二人の間の空白を埋めるための合言葉に」

「それ素敵」

 それから、二人で「アスペルジュ」と唱えてみた。これから訪れる今のために、言葉の限界に達する意味を宿して。

たった一度の夏が終わる

 今、アスペルジュは、二人の胸の中で眠っている。あの夏と一緒に。これからも。

Fin

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